【注意事項】
このお話には残酷な描写が含まれています。そして後味がよくないです。
お読みになる方は、その点をご理解の程よろしくお願いします。
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バベルは優しい子だ。だから、故意に誰かを傷つけるようなことはしない。
そう思っていた。そう信じていた。いや、違う。そうであってほしいと願い、思い込んでいたのだ。
目の前に広がる悲惨な状況を目の当たりにして、エヴァは己が抱いていた甘い考えを酷く後悔した。
ほのかに立ち込める死臭。両手を赤黒い血とぐちゃぐちゃの血肉で汚し、呆然と立ち尽くしているバベル。そして、彼を見て泣きじゃくる桃助。
エヴァが気分転換に学園の屋上に出向いた時には、すでにこの惨劇が起きた後だった。
一体何が起きたのか。ドクン、ドクン、と不快に暴れる鼓動が、彼の思考をかき乱す。バベルと桃助に感化されて立ちすくんでしまいそうになる。全身が凍り付きそうなほどの悪寒に包まれながらも、エヴァは気を持ち直した。
「ピーチよ、何があったのだ」
「ふえぇ、実は……」
桃助は目に涙をたくさん浮かべながら、口を開く。だが、嗚咽が邪魔して、上手く言葉を紡ぐことは出来なかった。エヴァは彼の背中を優しくさする。そして、安心させるように落ち着いた口調で声をかけた。
「無理に話そうするな。まずは落ち着くといい」
「う、ん…」
短くそれだけ言って、桃助はしばらくえぐえぐと泣き続けた。その間、バベルのことも心配でチラリと視線を向けてみたのだが、彼はまるで置物かのようにじっとしていた。目は虚ろで、何を考えているのか分からない。彼の表情からは喜怒哀楽のどの表情も感じ取ることが出来ないのだ。その様子がひどく不気味だった。
「エヴァさま……」
桃助をあやしつつバベルをしばらく見つめていると、その視線に気付いたらしい彼は、ようやく首を動かした。その動きはまるで古びた機械のようにぎこちない。
「バベルよ、どうして手が血で汚れているのだ?」
「これ……」
ずいっ、とバベルはエヴァの方に腕を伸ばす。彼とは若干距離があるが、掌に乗せられたものを捉えることができた。
小鳥だ。おそらく害獣に襲われたのだろう。小さな体には抉られたような傷があり、そこからは血と臓器がこぼれ出していた。
可哀そうに…。そう心の中で思いながら、同時に違和感を感じてならなかった。
小鳥の首の向きが明らかにおかしいのだ。サミーが首を回転させるところは何度もみたことがあるが、掌の上の小鳥のそれは決して回らない方向に捻じれていた。
自然に襲われただけならこんなことにはならないはず。そこまで思考がまとまったところで、嫌な予感にたどり着き、エヴァはゾワリと肝を凍らせた。
「まさか、お前が……」
そんなわけがない。あるはずがない。あっていいはずが……。
自分で導き出した答えをエヴァは必死に否定しようとした。だが、バベルの言葉は彼の一縷の希望を簡単に打ち砕いた。
「うん、ばべるがころした。いたくて、くるしそうだったから」
聞きたくなかった言葉。信じたくなかった真実。それらにエヴァは酷い目眩を覚えた。 耳鳴りがひどくて、胃がピリピリと痛む。
腹の奥から沸き上がってくるのは一体何だろうか。怒りか。それとも嘆きか。
「何故、そのような残酷な事をしたのだ!」
込み上げてくる名称し難いドロドロした感情。それを抑えることなど出来るわけがなく、エヴァは悲痛な叫びを上げた。
「お前は優しい子だ。それなのに……」
責めてはいけない。それなのに、バベルを被弾する言葉が止まらない。
止まれ、止まれ、と思いつつも、エヴァの気持ちとは裏腹に、言葉は雪崩のように溢れてくる。
「違うの、桃が、桃が……」
それを遮ったのは桃助だった。いつの間にか嗚咽は落ち着いたようだが、まだ涙は止まっていない。それでも、桃助は大きな目をしっかりと開いて、エヴァを見つめた。
「桃のせいなの」
そして消えそうな声でそう続けた。とても弱々しい声だったが、エヴァを正気に戻すには十分すぎた。
「バベル、ピーチ、すまない。我としたことが、取り乱してしまった」
エヴァは混乱した頭を落ち着かせようと大きく深呼吸した。そして、桃助とバベルを交互に見て、ゆっくりと問いかけた。
「頼む。一体何があったのか、我に話してくれ」
桃助は少し前に起きたことを、ぽつり、ぽつり、とエヴァに話し始めた。
この日、桃助は花に水を上げるために屋上に向かっていたのだが、バベルという先客がいた。
バベルも花が好きで、よく花を眺めにくる。だから、桃助は気に止めることなく彼に声をかけた。
「バベルさん、こんにちわ。今日もお花さんを見にきたの?」
「………あ、ももちゃん」
彼はいつも笑顔で振り向いてくれる。だが、この日はどうも反応が乏しかった。
上手く感情が読み取れないバベルに不安を感じつつも、桃助は彼に歩み寄る。そして、彼の手の中の小鳥に気付いたのだ。
その小鳥は桃助が見た時にはすでに負傷していて、虫の息だった。とても痛そうで、苦しそうなその様子に、見ているだけで心が苦しくなった。
「このこ、けがをしてるの。なおしてあげられるかな」
バベルの問い掛けに、桃助は眉を下げて俯く。桃助には専門的な知識はないが、止まらない血と損傷の激しい臓器、痙攣を始めている体を目の当たりにして、手遅れだということは嫌でも分かったから。
きっと自分達に出来るのは、この小鳥が最期を迎えるまで寂しくないように一緒にいてあげることくらいだろう。
「この小鳥さんはきっと助からないよ」
だからそう伝えたのだ。伝えてしまったのだ。
直後沈黙が訪れた。バベルは口を閉ざして、掌の小鳥を見下ろしている。桃助はそんな彼を見守った。
一体彼はどうするのか。
そうしてしばらくしてから、バベルはとても残念そうに
「そっか………」
とだけ言うと、そのまま小鳥の首を捻ったのだった。それは一瞬のことで、桃助には止める間もなかった。
コキっと骨の折れる音と、チッという断末魔の囀りが、彼の耳にこびりつく。
桃助は呆気に取られてしまったが、正気が戻ってくるにつれて恐怖が込み上げてきた。
「バベルさん、どうして……」
「んー?ももちゃん、だいじょうぶ?かおいろがわるいよ?」
「どうして、そんなことを……」
ガタガタと震える桃助に対して、バベルは平静を保っていた。小さな命を奪っておきながら、普段と変わらない様子が恐ろしくて堪らない。
「そんなこと?だって、ことりさんはもうたすからない。いたくて、くるしいまま、しぬのをまつのはかわいそう。だから、もういたくならないようにしてあげたの」
更にバベルの返事が追い打ちとなって、桃助は完全に言葉を失った。
自分のせいだ。自分が助からないと言ってしまったから、こうなってしまった。彼に命を奪わせてしまった。
己が発した言葉が悲劇の引き金になったことに、桃助は絶望し、涙が止まらなくなったのだった。
「なるほど、そのような経緯だったのか」
桃助の話が終わるまで静かに耳を傾けていたエヴァは、力なく呟いた。
何故このようなことになってしまったのか。そんな後悔に苛まれてならない。もちろんその場に居合わせていないエヴァには、この事態を直接回避することなど不可能だが、バベルの家族であり、兄であり、教育者としての責任を感じてならなかった。
バベルも、桃助とエヴァの反応や会話を見て、自分の行ったことが悪いことだと察したのだろう。さっきまでは無機物のよう動じなかった彼の体は、小刻みに震えていた。
「おにいちゃん……」
まるですがるような声がエヴァを呼ぶ。
「バベル、わるいことをしちゃったの?」
「あぁ、そうだな」
エヴァは重々しく頷いた。肯定するのは胸が痛む。しかし、バベルの方がずっと苦しんでいるのだと、己を叱咤した。
ここは心を鬼にして、彼の過ちを正さなければならない。彼が更に間違った行いをしないように、導かなければならない。それが自分にしてやれる唯一の事なのだから。
バベルの震えはどんどん大きくなっていく。エヴァは一度桃助から手を離すと、今度はバベルの背中をそっと撫でた。そして、彼の掌に眠る小鳥に視線を落とした。
「バベルよ、どんな理由があろうとも、命を手折ることはしてはならないのだ。そのことを理解してくれ」
「………うん…、ごめん、な、さい……」
何とか絞りだされたのは懺悔の言葉だった。途切れ途切れで弱々しくて、聞いているほうが辛くなる声で、バベルはひたすた謝り続けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼は何に対して謝っているのだろうか。小鳥か。桃助か。エヴァか。それともその全てにか…。
いつもは澄み切った綺麗な目は涙で濁り、何を写しているのかも分からない。しかし、心から反省しているのは彼の様子から明らかで、エヴァは更に諭した。
「今回お前がしてしまったことは許されることではない。だが、人間とは過ちを犯す生き物だ。己の罪を認め、後悔することも大切だが、二度と同じ過ちを犯さぬよう尽力せねば意味がない。バベル、お前は賢く、そして優しい子だ。どうすればよいか分かるな?」
ポロポロと涙を流しつつも、バベルは頷く。きっとエヴァの言葉はきちんと届いたことだろう。そう信じて、エヴァは桃助に振り返った。
「ピーチよ。お前にも辛い思いをさせてしまったな」
「エヴァさんは悪くないよ。桃がバベルさんに誤解を招く言い方をしてしまったから……、ごねんなさい」
「お前は何も悪くない。だから謝らないでくれ。すまなかった」
互いに謝罪の言葉は止まない。
エヴァはバベルと桃助の両方に手を伸ばし、二人一緒に抱き寄せた。これ以上後悔に苛まれないように。自責の念に押しつぶされてしまわないように。エヴァは二人を強く、強く、抱きしめて、溢れて止まらない悲しみを一身に受け止めた。