体の芯から込み上げてくる尋常じゃない熱をどうしていいのか分からず、バベルは震えていた。今日は一段嬉しい事があったわけでも、これから何か楽しい事が待っているわけでもない。それなのに、心臓がトクトクと弾み、体はぽかぽかと体温を増していた。
(どうしたんだろう、なんだか、からだがおかしい…)
変化があったのは体だけではない。彼の心もまた、異常に昂っていた。それはライブの前の高揚感に似ている。しかし、それよりももっと混沌としていて、苦しくて、辛くて、何かを強く切望するような感情だった。
自分が一体何を求めているのか、分からない。だが、彼の心は何か得体のしれないモノから解放されたくて、今にも悲鳴を上げそうだった。
(いやだ、こわい……)
自分が自分でなくなっていくような感覚に、バベルは小さく縮こまる。誰もいない部屋の隅にしゃがみ込み、自分自身を守るように強く抱きした。
「は…あぁ……」
動悸は収まるどころかどんどん酷くなっていき、呼吸が乱れる。吐き出される吐息はとても熱く、舌が蕩けてしまいそうだった。
「っあ………はぁ………」
荒い呼吸のせいで酸素が足りないのか、ぼーっとしていく思考の中で、バベルは自分に妖艶な気配を感じてぶるりと体を戦慄させた。
何もしていないのにゾクゾクとした震えが沸き上がり、バベルは身をよじる。そうやって、少しでもこの気持ちの悪い不可解な狂熱を逃がそうとした。
(こわい、こわい、だれか、たすけて……)
綺麗な水色の目には涙が溢れ、大きな粒となって、彼の顔を濡らしていく。そのしずくが垂れていく感覚すら刺激になって、気が狂ってしまいそうだった。
「バベル、どうしたのだ!」
「っあ……、おにい…ちゃ……」
全身が、頭の中が、酔狂な熱に支配されていく。意識が真っ白に塗りつぶされていく。
このまま自分は消えてしまうのかもしれない、そう恐怖していた彼は、ふと聞こえてきた声にハッとした。
とても大切な、かけがえのない人。その面影が視界に入った瞬間に、バベルの涙腺は決壊した。
「おにいちゃん、たす、けて…」
バベルは懸命に兄ことエヴァに助けを求める。しかし、体を動かす余裕すらなく、その場でうずくまったまま、すがるような視線を投げかけた。
エヴァはすぐにバベルに駆け寄る。そして、彼の体を支えようと手を伸ばした。
「んっ……」
微かにエヴァの指が肩に触れただけなのに、とてつもない痺れが全身を包み込み、バベルは思わず声を上げる。その声は悲痛なはずなのに蕩けるような甘さを秘めていた。
「バベル、一体何があったのだ?」
「わからない、きゅうにこころがどきどきして、からだがぽかぽかになって……おかしくなったの」
本当に分からないのだ。この変化の理由も、この熱の正体も。そして、これまで恐怖でしかなかったはずなのに、エヴァに触れられた時の感覚は嫌ではなかった理由も……。
「ねぇ、おにいちゃん」
「どうした」
「バベルはびょうきなのかな…」
ドクン、ドクン、と胸が高まる。涙でぼやけたエヴァから目が離せなくなる。かつて、まだ彼を兄だと呼べなかった時に似た渇望が溢れだしそうだった。
バベルはエヴァの手をそっと握る。燃え上がりそうな熱を帯びた身にエヴァの体温は冷たく感じて、その心地よさにうっとり目を細めた。
(もっと、おにいちゃんにさわりたい。それに、さわられたい)
きっと彼なら、この苦しい気持ちを全部幸福に変えてくれる。自分を救ってくれる。そう期待し、熱望した。
「さっきまでずっとこわかった。バベルがバベルじゃなくなってしまいそうで、こわくてたまらなくて、ないてた。
でも、おにいちゃんがきてくれたら、こわくなくなった。
それなのに、おかしいの。おにいちゃんがいると、どきどきがつよくなって、さっきよりもどんどんひどくなっていくのに、いやなきもちにならない。むしろ、もっとどきどきしたくてたまらないの」
バベルは全てをエヴァに委ねたくて、体を傾ける。それを上手く支えることができなかったエヴァと共に、一緒に床に倒れ込む。
「おねがい、たくさんバベルにさわって。おにいちゃんにさわってもらえたら、きっといっぱいしあわせになれるから」
バベルは、甘えるようにエヴァの胸に頭をうずめる。それに応えるように、エヴァの手が彼の頭を撫れた。
「……いいだろう、お前が落ち着くまで触れていよう」
優しい声に、バベルの心に新たな熱が生まれる。さっきまでの恐ろしいのもではなくて、幸福に包まれるような熱だった。
「おにいちゃん、もっと……」
頭から頬を。頬から首を。背中を、腰を。ゆっくりと、何度もエヴァの手が滑っていく。まるで壊れ物を扱うかのような優しい接触だったが、バベルは気が遠くなるような心地よさに溺れていった。
▪▪▪▪▪
体にまとわりつく熱がようやく引いたあと、バベルはエヴァに支えられてシャワー室まで足を運んでいた。彼自身はそのまま家に帰ってもよかったのだが、エヴァに風邪を引いたら困るからと連れて来られたのだ。
「はぁぁ………」
狭い個室で一人、バベルは心細さを感じながら深々と憂鬱なため息を吐く。
汗でベタつく体を洗い流せるのはいい。しかし、シャワーの湯に打たれるだけで少し前の甘い余韻が疼きそうで仕方がなかったのだ。しかも、温かな湯ともくもくと立ち込める湯気にさっきまでの熱を彷彿とさせられて、心が穏やかではいられなかった。
そしてもう一つ。
バベルはチラリと己の下部に視線を下ろす。いつから昂っていたのか分からないが、いつもよりもずっと質量を増しているそれに、顔をしかめた。
成人男性として避けては通れない生理現象だ。それをこのままにしておくわけにもいかなくて、バベルは渋々と手を添えた。
こういうことをるのは初めてではない。だが、いくらやってもどうも慣れないでいた。
「うっ……く………」
いつもよりずっと敏感になっているそれに、バベルは圧し殺した悲鳴をもらす。同時に、また上昇し始めた体温にゾワリとした。
あの時感じた心地の悪さと、今のこの感覚は酷く類似している。そう分かった途端に、血の気が引いた。
(だめ、またおかしくなる)
もうあのおぞましい熱に支配されたくない。そう思ったバベルはシャワーの温度調節ノズルを一気に捻った。
直後、温水が冷水に切り替わり、彼に降り注ぐ。それにより急に冷やされた体が驚いて強張った。
(つめたい……)
バベルは気にせずに冷水を浴び続ける。
昔は雨に濡れて余計な温もりを消し去っていたのだ。
あの時のように、ザーッと体を叩く水滴の音と凍てつくような冷たさが己の熱を打ち消してくれることを願いながら、バベルは静かに目を閉じたのだった。