「ねぇ、おくちをあけて?」
仕事の最中、トントンと肩を叩かれて。何事かと思って振り向けば、目の前に細長い茶色いものが差し出されて。半ば反射的に私は口を開いていた。それがいけなかった。
今日は11月11日。所謂ポッキーの日だ。
しまった、と思った時にはもう遅くて、口の中にチョコレートの甘い味が広がっていた。
いつからここにいたのだろう。私にポッキーを突っ込んできたバベルさんは、ニコニコと笑顔を携えていた。
手にはお馴染みの赤い箱がしっかりとおさまっていて、半分ほど中身がなくなっている。
「みおくんがぽっきーをくれたの。だから、おすそわけにきた」
口を半開きにした状態で固まっていると、ポッキーの尖端が舌に押しあてられた。
「たべて?」
どうやら、わざわざここまで持ってきてくれたらしい。しかも私が食べ終わるまで、彼はずっとこうしているつもりなのか、全く動こうとはしなかった。
ポッキーゲームをしにきたのかと勘違いしてしまった自分が恥ずかしい。それに、せっかくここまで来てくれた彼の親切を無下にするのは申し訳なくて、口に運ばれたポッキーに軽く歯を立てた。
細いビスケットがサクッと音を立てる。香ばしい味がチョコレートの甘味に混ざっていく。
「どう、おいしい?」
期待に満ちた目で尋ねたられたが、ポッキーが邪魔で返事は出来なかった。それに頷くと折れてしまいそうだったから、視線だけを返した。
重なったバベルさんの眼差しは、何故かとても楽しそうで、キラキラ輝いている。動物に餌を手渡ししている子供みたいだな、なんて思えてきた。
でも、少しずつ食べ進めていくうちに、これが間違いだったのだと気付いてしまった。
「どうしたの?まだのこってるよ」
あともう少しだけ。チョコレートのコーディングされていない部分が残っている。私はそれをどうしても食べれずにいた。
別にビスケットの部分が嫌いというわけではない。問題は別にある。ポッキーの端をしっかりと摘まんでいる彼の指が、今にも触れてしまいそうだったからだ。
口の中に放り込んでくれればいいのに、バベルさんはそうしてくれない。ただジッと、私が最後の一口を食べるのを待っていた。
これが狙いだったのか。そう思ってバベルさんを見上げると、悪戯がバレた子供のような微笑みが降ってきた。
「あとひとくち、がんばって」
不意に、細長い指が口内に侵入してきた。突然のことに驚いた私は、思わず口を閉じてしまった。
ガリッと歯に柔らかな感触が広がる。同時に、これまでの美味しい味とは全く違う嫌な鉄の味がして、サーッと血の気が引いた。
一方でバベルさんは顔色一つ変えずに、ゆっくりと指を引き抜いた。その指は、私の唾液と、溶けたチョコレートと、血で汚れていた。
「ご、ご、ごめんなさい!今すぐ消毒しますね」
「これくらいだいじょうぶ。いたくない」
「大丈夫じゃないです。それに、痛くなくても化膿したらどうするんですか」
「なめてれば、へいき」
焦る私の言葉など気にも止めず、バベルさんは自分の指に舌を這わせた。ペロリ、と自分の指を汚すものを全て絡め取っていく。
別に見せつけられているわけではない。それなのに、その姿から目が離せなかった。
かなり強く噛んでしまったみたいで、一度舐めただけでは血は止まらなかったらしい。何度か傷口を舐めていたが、最後は口にくわえて血を強く吸い上げる。
「ほら、ち、とまった。これでだいじょうぶ」
綺麗になった指をこちらに見せながら、バベルさんは何事もなかったかのようにケロリとしていた。でも痛々しい傷はしっかりと残っていて、罪悪感に胸が痛んだ。
「バベルさん、本当に大丈夫ですか?」
「うん、ぜんぜんいたくない。でも、くちのなか、ちょっとへんなあじがする」
少しだけ、バベルさんの表情が険しくなる。
「お水を持ってきましょうか?」
「んー、おみずはいらない。こっちがいい」
バベルさんがずっと持っていたポッキーの箱が目の前に迫ってきた。たったそれだけで、何をしたらいいのかすぐに分かった。
「こんどはきみが、たべさせて?」
想定した通りの言葉に、私は苦笑する。ここまでが彼のシナリオだった…なんてことはないと思いたい。
まさかね、と頭に浮かんだ微かな疑念を掻き消して、私は箱からポッキーを一本引き抜いたのだった。