この日のバベルは少し様子がおかしかった。
特に理由があるわけでもないのに、わざわざ黒羽の家に押し掛けて、しかも泊めてほしいと半ば無理やりに押し入ってきたのだ。彼が不可解な行動を取ったり、謎の積極性を発揮する事は、これまでも何度かあった。しかし、今回は違和感のようなものを感じてならなかった。
それが何なのかは分からない。ただ、あまりいい予感はしなかった。
関わらない方が身のためだ、と黒羽の直感が告げる。だが、どこか暗い空気を纏うバベルを放っておくのは良心が痛んだし、何より今の彼はテコでも玄関から動きそうになくて、仕方なく家に招き入れたのだった。
「ねぇ、くろは、うんめいのあかいいとって、ほんとうにあるとおもう?」
「はっ?急にどうしたんだ?」
時間は18時過ぎ。夕食の支度をするために黒羽は台所に立っていた。彼の隣では、手伝いを申し出たバベルが黙々と野菜の下ごしらえを始めていた。
そんな中で、不意にバベルから投げ掛けられた問い掛けに、黒羽は眉を潜めた。
チラリと横目で様子を見てみると、バベルは心なし元気がないようだった。そもそも、家に入ってから彼は一度も笑っていないし、ここまで暗い表情を見た記憶など、黒羽にはほとんどなかった。
「このまえ、みおくんにおしえてもらった」
大丈夫だろうかと心配しつつ、黙って様子を伺う。バベルは作業する手は止めずに、ぽつりぽつりと話し始めた。
「うんめいのあかいいとでむすばれると、こいびとになれる。ずっと、ずーっと、いっしょにいられるんだって。
バベルも、あかいいとでだれかとつながるのかな。それを、かんがえてた」
彼の言葉に注意して耳を傾けていた黒羽は、眩暈がしておたまを持ったままの手で額を押さえた。
どうやら、また澪に変な事を吹き込まれたようだ。しばらく前に彼がバベルに妙な事を教えたせいで、朔空に酷い目に遇わされたというのに、まだ懲りていないらしい。
「バベル、お前は他人の言った事を鵜呑みにし過ぎだ。信じるかどうか少しは考えろ。悩むのはそれからだろう」
「でも、みおくんはうそつきじゃないよ。それに、ももちゃんもあるっていってた」
「いや、確かにそういう言葉は存在するが、実在するものではないことくらい分かるだろう」
もう少し思案しろ。そう咎める視線を送り、黒羽は再び出汁を取り始めた。
「くろは、あかいいと、しんじてないの?」
「当たり前だ」
「そっか……」
バベルの落胆したような溜め息が聞こえてくる。それからすぐに、トントンと包丁がまな板を叩く音が聞こえ始めた。
どうやら、バベルも調理に戻ったようだ。
作業する音以外に何も聞こえなくなった空間に、どことなく気まずさが漂う。
少し強く言い過ぎただろうか。そんな後悔が黒羽の心に靄をかけた。
(後で謝った方がいいだろうか。いや、時にはきとんと指摘してやらないとバベルの為にならない。あぁ、でももう少し優しく諭してやってもよかったのでは…。
あぁ、駄目だ。料理に集中できない)
鍋をかき回しながらあれこれと悩んでいると、いつの間にか隣から聞こえていたはずの音は止まっていた。野菜を全部切り終わったようだ。
「バベル、そっちは終わったのか?」
気まずさを圧し殺し、なるべく自然に話し掛ける。だが、顔を上げた途端に飛び込んできた光景に、黒羽は目を見開いた。
少し不格好だがきちんと切り分けられている野菜には目もくれず、バベルはジッと包丁を見つめていたのだ。それだけならいい。問題はその包丁の刃が、バベル自身に向けられていた事だ。
どこか虚ろな目をする彼に、ただならぬ危うさを感じた黒羽は、思わず声を張り上げた。
「おい!」
しかし、そんな彼の静止も虚しく、バベルは自分の腕を包丁に近付ける。
このままではいけない。黒羽は慌てて止めよう手を差し伸べたが、バベルの方が少し早かったようだ。
包丁の刃が彼の腕にあてがわれ、その薄い皮をぷっつり破り、肉まで裂いていく。よく研いでいたことが災いして、軽く滑らせただけなのに傷口からはドクドクと血が溢れだした。
目の前で起きた信じられない出来事に、黒羽は唖然と立ち尽くす。一方で、バベルは彼を見つめてニッコリと笑った。この家にきてから、初めて笑ったのだった。
「くろは、あかいいとをしんじない。でも、バベルはあるって、しんじてる。だからね……」
痛々しい傷を気にも止めず、バベルは黒羽に血の滴る手を差し出す。
バベルからひしひしと伝わってくる狂気に、黒羽は思わず後ずさる。しかし、狭い台所に逃げ場などなく、あっけなく捕まってしまった。
「すきなひとと、あかいいとで、むすばれたいっておもうの」
バベルの腕を鮮やかな色の血が伝っていく。不規則で歪な線を描きながら、ゆっくりと、ゆっくりと、黒羽に迫っていく。
それはまるで一本の糸のようだった。
「みて、あかいいとみたい」
バベルの腕を侵食していく血は、やがて彼が掴んで離さない黒羽の手に到達した。ネットリとした感覚が手に広がっていき、その生々しい暖かさと粘っこい感触に、黒羽は嫌悪感から体を震わせた。
血は止まらない。それどころか、どんどん溢れだし、バベルと黒羽を赤黒く汚していく。
「バベル、馬鹿な事をしてないですぐに手当てを…」
「くろ、だまって!」
このままではバベルが危ない。黒羽は止めさせようと口を開いたが、バベルの気迫に気圧されてしまい、途中で言葉を飲み込んでしまった。
純粋に彼を心配する気持ちと、何をしでかすか分からない恐怖に、黒羽の鼓動が乱れていく。
「ふふっ、きれい。あかはくろのいろだから、とってもにあうね」
不安に押し潰されそうな黒羽とは違い、バベルはうっとりとしていた。苦痛を全く感じさせない恍惚とした目で、どんどん広がる赤色を眺めている。
ライブモードの時とはまた違う怪しげな眼差しに、黒羽は背筋を凍らせた。
「これで、バベルとくろは、あかいいとでつながったね」
愛しげに細められた澄みきった蒼い瞳の奥底に、ギラギラとした獰猛な光が宿っている。その光は真っ直ぐに黒羽を射抜いて、離そうとしない。
ニッコリと吊り上げられた唇からは、甘く湿った吐息が溢れ落ちてくる。血の気が引いていく腕とは裏腹に、彼の頬は紅潮していた。
「あとは、くろのあかいいととつながったら、りょうおもいになれるね」
バベルの言いたい事を理解した黒羽は、首を横に振る。その体は尋常じゃないくらいにガタガタと震えていた。
怖い。怖い。怖い。
ただ、純粋な恐怖が黒羽を呑み込んでいく。
全く勢いが衰えずに出血が続いているのに、バベルの手のひらに込められた力は全く弱まることなく、黒羽がいくら振りほどこうとしてもびくともしなかった。それどころか更に強く捕まれて、その痛みに黒羽は顔を歪めた。
「バベル、止めろ……」
「だいじょうぶ、ちょっと、ちくっとするだけだから」
バベルはニコニコ笑ったまま包丁の切っ先をゆっくりと黒羽に向ける。そして、優しく、触れるように、その刃を彼にあてがい………
「くろ、だいすき」
そっと、真横に滑らせた。