久しぶりに黒と喧嘩をした。もしかしたら、アイチュウになってからは初めてかもしれない。昔は手が出るくらいに激しく対立する事だって少なくなかったから、懐かしくもあるけど、やっぱりそれ以上に腹が立って仕方がなかった。
きっかけは本当に些細な事だった。次のライブの演出の方法でお互いの意見に納得がいかなかっただけ。それだけならよかったんだけど、プロデューサーちゃんが黒の肩を持ったのがいけなかった。
何で俺じゃないの?何で俺以外の男の、よりによって黒の味方をするの?
そう思い始めたら、怒りの歯止めが効かなくなっていた。それからは自分でも覚えてないくらいに何かを叫び散らしていた気がするし、黒もかなり声を荒げていたはずだ。まぁ、頭に入ってきてなかったから、何をどう言い合っていたのかなんて全く分からないんだけど……。
結局、喧嘩は黒がミーティングルームを飛び出す形で終わった。でも、俺の苛立ちは全く収まろうとはしなかった。
「ねぇ、バベル。その手、離してくれない」
「いやだ」
今、この部屋には俺とバベルしかいない。黒は部屋を飛び出して、プロデューサーちゃんが黒を追いかけていってしまったからだ。
また俺じゃなくて黒が選ばれた。その事実が信じられなくて、耐えられなくて、赦せなくて。気が狂ってしまいそうだった。
今すぐにでもプロデューサーちゃんを追い掛けたい。彼女を見つけて捕まえて、俺と二人きりにしたい。そうじゃないと、何をしでかすか分からない。それに、このままだと、バベルにだって手を出すかもしれない。
「お願いだからさ、離してよ。まだ俺が優しくしてあげられるうちに言うこと聞いといた方が身のためだよ」
「だめ。はなさない」
「…………離せよ」
「はなさない!」
いつもはちょっと牽制したらすぐに弱腰になるのに、何でこういう時だけは頑固なんだろう。俺はバベルの事を気にかけて言ってあげてるのに、それにすら気付かないなんてね。もっと空気を読んでくれればいいのに、本当に馬鹿だなぁ。
「お節介を焼かれてもウザいんだけど。俺の邪魔をするならバベルでも容赦しないよ」
「それでも、さくをはなさない。おこってるさくはこわいけど、いまてをはなしたら、もっとこわくて、かなしいことになるから、ぜったいにはなさない」
「何それ。わけ分かんないんだけど」
力一杯に腕を振り解く。そのつもりだったけど、向こうも本気らしい。
痛いくらいに握られた手を振りきるのは無理だったみたいで、手首が痛むだけだった。
「さくがすごくいらいらしてるのは、バベルにもわかる。ぷろでゅーさーをおいかけたいっておもってるのも、わかる。でもね、いまのさくは、きっとぷろでゅーさーも、くろも、きずつける。それで、いちばんに、さくじしんを、きずつけちゃう。そんなの、みたくない」
腕を掴む力が更に強くなる。怒りで真っ白になりかけていた頭に痛みが駆け巡る。そのせいで、昂ってた気持ちが無理やり抑制されたみたいだった。
少しだけ物事が冷静に考えられるようになった気がする。一息おいてからバベルを見上げると、今にも泣きそうな顔をしていた。
「偉そうな事言ってるけどさ、バベルが一番悲しい顔してるじゃん」
「だって、かなしいから」
「それなら放っとけばいいじゃん。自分から傷つきにいくなんて、馬鹿だよ」
「ちがうよ。ほうっておいたら、もっとかなしくいなるから、いまのうにちとめるの」
「自分の為に?」
「そう。バベルのため。くろも、さくも、ぷろでゅーさーもかなしいきもちにならないでいてくれたら、それだけでバベルはうれしいから」
「あっそ」
少しでも俺のためだと言ってくれたら、迷わず偽善だと言ってやろうと思っていたのに、それも出来なくなってしまった。自分勝手だと言ってやってもいいけど、それだも俺も変わらない。そう思うと馬鹿らしくなってきた。
バベルの甘さに感化されたのか、手の痛みで理性が強制的に戻ってきたのか。はたまたその両方なのか。
理由はどうあれ、さっきまで頭に昇って煮えたぎっていた血は、落ち着いたようだった。
「バベルってさ、本当にムカツク時があるよね」
その強引さも、勝手に人の気持ちを推測して踏み込んでこようとするところも、普段はチョロいくせにこういう時だけ何を考えてるのか読めないところと、どこまでも真っ直ぐなところも。そのどれもがムカツクのに、本気で嫌いになれないのは何なんだろう。
毒気でも抜かれてるのか。それとも………。
以前、俺は黒の優しさを毒だと言った事があった。それに対して、黒は俺を猛毒だと言い返してきた。この事に異論はない。
でも、もしかしたらこの中で一番厄介な毒を持っているのはバベルなのかもしれない。
優しくて、痛みなんてない。侵食されている事にすら気付きもしない。逆にその心地よさに溺れて、気付いた時には依存してしまうような毒。
俺はそれにどっぷりと浸かりすぎたのかもしれない。云わば、毒の上塗りだ。
「バベル、もう離しても大丈夫だよ」
「えー、ほんとうかなぁ」
「本当だって」
「うーん……じゃあ、はなしてあげるけど、こうさせてね」
バベルの手が離れる、と思いきや今度は思いきり抱き締められた。何これ、絶対に俺を逃がすつもりないでしょ。
「俺、もしかして信頼されてない?」
「ちがうよ。バベルがうれしいから、ぎゅーってしてるの。それだけー」
「あっそ」
昔の俺だったらこの腕から抜け出そうとしたのかな。言葉巧みにバベルを騙して、それでプロデューサーちゃんと君を追いかけていたかもしれない。本当は今だってプロデューサーちゃんの側にいたいし、黒から引き剥がしたくはあるんだけど……。
「後で覚えてなよ……」
「んー、さく、なにかいった?」
「ううん、気のせいじゃない?」
今はバベルに免じて赦してあげるよ。今だけは、ね。