ゆっくり、ゆっくり、暗い廊下を進んでいく。視界が悪いからだろうか、反響する靴音が酷く煩く聞こえた。
「あははっ、結構本格的だね」
不気味は雰囲気とは裏腹に、背後から聞こえてくる朔空の声は楽しげだ。一方で、バベルは口数が減っている。チラリと黒羽が振り返ると表情が引きつって見えた。相当怖いのだろう。
何が起きるのか分からない緊張感に、黒羽も額から冷や汗を垂れ流していた。
ホラーハウスの宣伝のオファーが来たのは数日前の事だ。学園からそう遠くない遊園地ないにあるホラーハウスで、元から怖いと評判だったのだが、今回リニューアルしたのだという。
今回はアルケミストの三人が一足先に中を巡り、その様子を一部公開して、宣伝番組の一部に盛り込むことになったのだ。
これまでホラーハウスなんて入ったことのなかった黒羽は、中がどんな感じなのかなあまり予測出来ていなかった。だが、足を踏み入れた途端に変化した底冷えするような空気に、ゾワリと体に寒気が走ったのだった。
今回のテーマは廃病院。ありきたりではあるが、人間が恐怖を感じるには十分すぎる程の要素が散らばめられていた。ふわりとは鼻を突く消毒の匂い。綺麗に拭いきれなかった床の血痕。錆びた車椅子やストレッチャーは無造作に転がり、放置されたままの点滴は変色していた。
命を救う場所でありながら、救いきれなかった命もあったことだろう。そして、生にしがみつく人の思いは、今もなおこの空間に取り残されている。そして、生きる者を憎み、妬み、同じ苦痛と死の淵へ誘おうと狙っている。そんな恐ろしさを駆り立てられた。
そのせいだろうか、普段よりも歩く速度がずっと遅い。中に入ってかれこれ10分は経過しているのに、最初の受付フロアをようやく抜けたところだった。
「くろ………」
「バベル、大丈夫か?」
「ここ、ものすごくさむい。それに、いやなかんじがする。はやく、でたい……」
ガタガタと震えるバベルに、黒羽の恐怖心も増していく。恐らく、最後尾でカメラを片手に持ちながら楽しそうにしている朔空がいなかったら、完全にここの空気に呑まれていたことだろう。
「二人とも大丈夫?ほら、さっさと二階に行こうよ」
「お前は随分と平気そうだな」
「まぁ、こういうの好きだし」
「それならお前が先に行け」
「別にいいけど、それならカメラは黒が持ってよね。ついでに辺りの撮影もよろしく。何か映り込むかもしれないけど」
「………このままでいい。撮影はお前に任せる」
「はいはい、仰せのままにぃ」
ニヤニヤと笑っている朔空が腹立たしい。だが、その怒りすらも不穏な胸騒ぎのせいで掻き消されていった。黒羽は震えているバベルの肩をぽんぽんと優しく叩き励ましてから、再び順路を進んでいった。
受付の次は診察室。そして病棟へと繋がっていた。昭明の点滅する階段を上り、2階に上がると更に辺りは暗くなり、腐敗臭とも鉄の香りともいえるような噎せ返る匂いに包まれた。
黒羽は思わず噎せる。そして、目を見開いた。
「っーー!」
床に目を向けた途端に、足元に無数の人の手が広がって見えたのだ。悲鳴は何とか飲み込んだものの、心臓が痛いくらいに跳ね上り、思わず後ろ向きに倒れそうになった。
「くろ、どうしたの?」
少し後ろを歩いていたバベルの不安げな声に、黒羽ははっと正気に戻る。次に床を見たときには床から人の手は消えていた。代わりに手形のような痕が大量に床に残っていたから、きっと錯覚してしまったのだろう。
「悪い、少し躓きそうになった。暗いからお前達も気を付けろ」
そう何とか誤魔化して、黒羽は再び歩き出した。
どれだけ歩いただろうか。ようやく最後のフロアにやってきた。
途中でスタッフに驚かされるような事はなく、ただただ中の雰囲気だけで限界まで怖いという感情を刺激させる演出に、黒羽は心身疲弊しつつも感服していた。
最後のフロアは霊安室。一番死に近い場所だ。
「二人ともここを抜けたら出口だぞ」
「……うん…」
黒羽自身もかなり限界だが、バベルが心配でならなかった。こういう仕事は今後はあまり引き受けない方がいいのかもしれない、なんて事を考えながら気を紛らす。
どうやらここの部屋は他とは違い足場を不安定にしているようだ。早く出口を目指したいのに、一歩一歩進む度に、ぎぃぃ…ぎぃぃ…と床が軋むのだ。
別に音がしたからといって問題はない。だが、目には見えない、起こしてはいけないナニカを起こしてしまうのではないか、という不安が足を鉛のように鈍く重くさせていた。しかもタンカや救急カートが乱雑に配置されていて、注意して歩かなければ倒してしまいそうだった。
黒羽は慎重に少し先に見える『出口』と書いたパネルを目指す。だが………ガシャンッ!と何かが床に落ちる音が背後から聞こえて、飛び上がりそうになった。しかも、少し遅れて背後から何かに強く肩を捕まれて、一気に込み上げてきた恐怖はそのまま喉を通りすぎて絶叫に変わった。
「うわぁぁぁっ!」
「あぁあぁぁ!」
彼の悲鳴に被せるように、バベルの悲鳴もこだまする。それから少し遅れて、
「うわー、俺も怖い、怖ーい」
と気抜けした朔空の声が聞こえてきて、ずしりと肩の重みが増した。どうやら、二人のどちらかが何かを落としてしまったようだ。
「お、驚かさないでくれ」
「あう、ごめんなさい」
「………まぁいい、このまま出口までいくぞ」
一度叫んでしまったからだろうか。それともバベルと朔空に触れられているからだろうか。少しばかり恐怖心が抜けた気がした。
それに、震えながらしょんぼりとしたバベルを責めることなど出来なくて、黒羽はさっきよりも少しだけ歩く速度を上げたのだった。
数日後、ホラーハウスの宣伝用の映像がし上がり、学園に送られてきた。出来ることなら思い出したくはなかったのだが、折角送られてきたものを確認しないわけにはいかず、3人は時間を合わせて視聴覚室に集まっていた。
主に使われたのは最初と最後のフロアの映像だ。怖がる黒羽とバベル、そして飄々としている朔空のバランスがいい塩梅で編集されていた。怖がっている自分を見るのは不本意ではあったが、構成としては中々だろう。
「二人ともビビりすぎ」
「煩い!」
そんな他愛もない言葉を交わしながら映像を見ていて、ふと黒羽は気になる箇所を見つけたのだった。
それは最後のシーン。霊安室でバベルがベッドに置いてあった器具を落としてしまった後のシーンだ。
『うわぁぁぁっ!』
『あぁあぁぁ!』
バベルが黒羽に飛び付き、二人同時に叫ぶ姿が映る。それから、
『うわー、俺も怖い、怖ーい』
全く怖がっていない朔空の声が入る。映像ではそのまま足早に黒羽とバベルが出口へ進み、カメラマン役の朔空が少しあとを追う形で終わっていた。
おかしい。と黒羽は首を捻る。
「おい、朔空」
「何?」
「変なことを聞くが、この撮影の時に俺に抱きついたりしてないよな?」
「はぁ?するわけないじゃん。抱きついたのはバベルだけだよ」
「…………そう、だよな」
あの時、確かに二人分の重みを感じた筈だ。それなのに、朔空は自分から離れた場所にいるし、彼自身がそれを否定している。それならば………
"あの時、自分の肩のに触れた二人目は誰だったのか………"
そう考えた途端にゾワゾワと肝が冷えきる心地がして、黒羽は体を震わせたのだった。