常闇の広がる魔界に、場違いな純白が舞い降りた。はらり、はらり、と落ちてくるそれはまるで雪のようだ。
魔族を統べる魔界の王は、空から落ちてくるそれを怪訝そうに見上げる。彼がそっと手を伸ばして拾い上げたそれは、羽だった。
一体どこから……。その疑問はすぐに解かれた。
「こんにちは」
バサリと大きな翼をはためかせ、魔王の前に一人の青年が降り立った。その青年は魔王よりもずっと大きな背丈をしていながら、言葉は辿々しく、ふにゃりと綻んだ表情はまるで子供の様だった。
魔王は眉を潜める。目の前の青年が何者なのかすぐに理解したからだ。
「天使が魔界に何用だ?」
澄みきった青い目を鋭く細め、魔王は峻厳に訪ねる。下等な魔族ならばきっと恐れおののいていたことだろう。だが、天使の青年はまるで怯む様子もなく笑顔を携えたままだった。
「バベルは、あなたにようがあってきました」
魔王と同じ色をした天使の青い目が、真っ直ぐに魔王を映す。その視線があまりにも純粋で、魔王の方が気圧されてしまいそうになった。
「あなたにおとどけものをもってきた」
「ほう、一体何を届けに来たというのだ?」
「バベルをとどけにきました」
天使の容姿から、なるほど宅配を生業にした者なのかと納得したのも束の間。理解に苦しむ言動を続ける天使に、魔王はただただ困惑するしかなかった。
自分を届けにいた。一体この天使は何を言っているのだろうか。
「わざわざ戯れ言をぬかしに来たのであれば、早急に立ち去れ。これ以上の無礼は許さぬぞ」
「じょうだんじゃない。バベルはほんき」
「まだ言うか」
「うん。だって、ほんとうのことだから。バベルね、ずっとあなたをさがしてた」
天使の手が魔王に伸びる。その手を魔王は払い除けようとしたが、自分を見つめて離さない天使の真剣な眼差しに射抜かれて動けなかった。まるで金縛りにでもあってしまったかのようだった。
天使は両手で魔王の頬を包み込む。そして愛しげに囁いた。
「あなたは、バベルのおにいちゃんだから」
あり得ない。天使と魔王の兄弟など、あり得る筈がない。それなのに、天使の言葉は不思議と魔王の心にストンと落ちていった。それは直感とでも言うべきだろうか。血の共鳴とでも言うべきだろうか。天使の言葉は真実なのだと理解したのだ。
しかし、だからといって全てを受け入れられたわけではない。
「天使よ、貴様の言い分は理解した。それで、貴様は我の元に来て何を求めるつもりだ?」
「バベルは、おにいちゃんといたい。それだけだよ」
「そうか……」
屈託のない微笑みを浮かべる天使に、魔王は眉を下げた。
この天使は純粋だ。それ故に、後先を考えない。ただ目の前のことにひたむきになる。それは強さでもあるが、同時にあまりにも愚かだ。
魔王は天使の手に手を添え、ゆっくりと自分から引き剥がす。
「仮に貴様と我が兄弟であったとしよう。だが、我等は共にあることは出来ぬのだ」
「どうして」
「貴様が天使だからだ。ここは魔族の住まう場所。貴様の生きる世界ではない。そして我は魔王。貴様の居場所たる天界に居るべき存在ではないのだ」
「しゅぞくがちがうから、いっしょにはなれないの?」
「そうだ。天使には天使の、魔族には魔族の世界がある」
ゆっくりと、子供に諭すように。魔王は天使に言い聞かせる。大人しくその言葉に耳を傾けていた天使は、次第に笑顔を曇らせていった。
「バベルがてんしじゃなかったら、いっしょにいられたの?」
「………そうだな。可能性はあったであろうな」
「そっか」
諦めたのか。受け入れたのか。
天使はスッと目を閉じる。そして一呼吸置いてから、再び瞼を開いた。若干滲んでいた悲しみの色はなく、代わりにどこか覚悟を込めたような強い意思が芽生えていた。
その様子に魔王は安堵しつつも、どういうわけか胸騒ぎのような感覚を抱いた。天使から目を離してはいけない。そう、警告する自分がいたのだ。
天使は笑う。それが更に魔王の不安を駆り立てた。
「それじゃあ、バベルは………てんしをやめます」
「おいっ!」
咄嗟に魔王が手を伸ばしたのと、天使が己の翼を引きちぎったのは同時だった。
ブチリと痛々しい音がして、辺りに血の匂いが立ち込めた。あっという間に天使の体は血で染まり、その血飛沫は魔王の肌も汚した。
骨も肉も無理やりに千切ったのだ。相当痛かったに違いない。穏やかだった天使はグッと唇を噛みしめ苦痛に耐えていた。
「あと、ひとつ………」
「よせ!」
残る翼も同じように千切ろうとする天使を、今度は阻止する事ができた。魔王は天使の手を奪うと、そのまま引き寄せる。そして、自分よりもはるかに大きな体を強く抱きしめたのだった。
「もうよい。頼むから、止めてくれ」
「でも、このつばさがあったらバベルはあなたといっしょになれない。それとも、あなたはバベルといっしょにいたくないの?」
「違う、そうではない」
魔王は抉られた傷口には触れないように気を付けながら、天使の背中を撫でる。ドクドクと溢れて止まらない血がとても熱い。魔王は己の手がべったりと汚れることも厭わずに、天使をあやし続けた。そうしないと彼が壊れてしまう気がしたから……。
「もう止めよ。片翼では天界に帰れまい」
「じゃあ、バベルはここにいてもいいの?」
「当たり前だ」
「ほんとうに?」
「この状況で嘘をついてどうなるというのだ」
「………そうだね」
きゅっ、と。遠慮がちに天使の腕が魔王の背に回される。まるで壊れ物を扱うように、その手付きは優しかった。魔王はやれやれと息を吐きつつ、天使だった青年を見上げる。
「バベルよ、魔界で生きる覚悟はあるか?ならば、我は貴様を歓迎してやろう。だから、それ以上傷付いてくれるな」
一瞬、彼の目が見開かれた。動揺と歓喜に揺れた瞳が潤み始めたのはすぐのことだ。
「ありがとう、おにいちゃん」
どれだけ血で汚れようとも、純白の翼を捨てようとも、天使だった青年から流れる涙は穢れなく清らかに輝いていた。