奏多が久しぶりに本を読もうと思ったきっかけは、晃だった。ずっと気になっていたミステリーの続編が出たと嬉しそうに語っていた事や、真剣に小説に視線を落とす姿が、奏多の脳裏に貼り付いて離れようとしなかったのだ。
ゆっくりとページを捲る長くて綺麗な指。物語が進むにつれて僅かに変化する表情。そのどれもが格好よくて、ほんの少し真似してみたくなったのだった。
奏多は学園の図書室へ向かうと、普段はあまり踏み込まない項目の本棚を目指す。いつもは古典などの本を読む事が多いが、今回探しているのは推理小説だ。アガサ・クリスティーやコナン・ドイルなど有名な著者の本の中には幾つか知っている作品もあったが、ほとんどが初めてみるものばかりで、奏多はどれを手に取ってみればいいのかと考えあぐねた。
手頃な文庫サイズのものから、分厚い革表紙の本、中には英語で記されているものも少なくはない。どれが自分に合っているかなんて、見当もつかなかった。
「あっ………」
さてどうしようか、とキョロキョロしながら考えていると、一冊の本が目に止まった。
本棚の最上段。そこに陳列されている、少し分厚い真っ黒な本。そこに目立つ金の背文字で刻まれた『兎のいる部屋』というタイトルが、奏多を引き付けた。
どんな内容なのかは分からない。でも自分の好きな『兎』というワードが入っているだけでも十分に興味が沸いたのだった。
(よーし、試しにこの本を読んでみよう)
奏多はそう意気込んで本に手を伸ばす。しかし……
(と、届かない……)
自分の背丈よりもずっと大きな本棚の最上段には、頑張って背伸びしても指が届きそうになかった。爪先で立ってみても、ピョンピョンとび跳ねてみても結果は同じだった。
そのままあの手この手を尽くしてみたが、結局本は取れそうになかった。かれこれ10分くらいは奮闘しただろうか、奏多は仕方なく踏み台を借りに行こうかと思い立った……が、ふと頭上に影が広がってピタリと動くのを止めた。
僅かに背中に温もりを感じる。同時にふわりと鼻孔を擽ったのは嗅ぎなれた香水の香り。
奏多は弾かれたように顔を上げる。
「晃くん………」
優しく目が細められた晃と視線が交わり、奏多の心臓がドクンッと大きく跳ね上がる。一方で晃はニコリと笑顔を携えたまま、ずっと奏多が取ろうとしていた本を容易に本棚から抜き取った。
「ごめん、驚かせてしまったかな」
「う、ううん。大丈夫」
「それなら、よかった。本を返しに来たらちょうど奏多が本を取ろうとしてるのが見えたから気になってしまってね。この本でよかったかな?」
スッと晃に差し出された本を受け取る。見た目だけでもそれなりの質量があるのは予測できたが、実際に手にとってみるとズシリとした重みを感じた。
奏多は本を落とさないように両手で抱える。
「ありがとう」
「どういたしまして。それにしても、奏多がこんな本を借りにくるなんて珍しいね。誰かに勧められたのかな?」
「そういうわけじゃないんだけど……たまには普段読まないような本を読んでみるのもいいかなって思ったんだ」
「へぇ、それでミステリーを?」
「うん」
奏多はこくこくと首肯く。流石に『晃くんがミステリーを読んでる姿が格好よくて、真似してみたくなった』なんて、面と向かって言える筈がなかった。
もしも気付かれてしまったら…。そう思うと恥ずかしくて堪らなくて、奏多は咄嗟に話を振った。
「それにしても、晃くんはすごいね」
「何がかな?」
「僕がどんなに頑張っても手が届かなかった本を簡単に取っちゃうんだもん。いいなぁ、僕も晃くんくらい大きくなりたいよ」
「奏多はまだ成長途中だからね。これからどんどん背が伸びると思うよ」
「えへへ、そうかなぁ」
「そうだよ。焦らなくても大丈夫さ。それに、奏多は今でも十分に魅力的だよ」
晃の掌が降りてきて、優しくて頭を滑っていく。指に髪が絡まらないように、ゆっくりと、だけどしっかりと、何度も、何度も、撫でられた。
少しだけくすぐったかったけど、奏多は動かずにそれを受け入れる。こうやって彼に撫でられるのはとても心地がいい。ホッとした安心感に包まれて、幸せな気持ちになる。
彼の手が離れるまで、奏多はじっと大好きな掌の温もりを堪能した。
「ところで、奏多は他にも何か本を借りるのかな?」
「うーん、特に決めてはないよ」
「それなら、俺のお勧めの本があるんだけどそれも借りて読んでみない?」
「晃くんのお勧め!それ、すごく読みたいな!」
離れていく晃の手が名残惜しい。だが、彼からの申し出は奏多にとっては願ってもないもので、ぱぁっと表情を明るくさせたのだった。
◆◆◆◆◆
「晃くん、今日はありがとう」
「気にしないで。それに俺もすごく楽しかったからおあいこだよ」
あの後二人で図書室をグルリと巡り、始めに奏多が見付けた本とは別に、もう一冊だけ別の本を借りたのだった。
持ち運びに手頃な文庫サイズのその本もまたミステリー小説。長さも難しさも丁度よくて、あまり怖くないものがいいだろう、と晃が厳選した一冊だ。内容は全く聞かされていないが、彼が選んだものなのだからきっと面白いに違いない。元より、真剣に選んでもらえた事がとても嬉しくて、奏多の足取りも気持ちも弾んでいた。
「ご機嫌みたいだね」
「だって、本を読むのが楽しみなんだもん」
笑いながら、二人で歩きながら廊下を進んでいく。思っていたよりも時間は経過していたようで、傾いた太陽が辺りを橙に染め上げようとしていた。
(どうしよう、今からすごくワクワクしてる。早くどんなお話なのか知りたいなぁ)
始めに選んだ方は家でゆっくり読もう。彼に選んでもらったものは移動の合間に少しずつ読んでいこう。そんな事をあれこれと考える。
「……た、奏多…」
ふと、晃に名前を呼ばれて奏多はハッと顔を上げた。考え事をしていて気付かなかったが、いつの間にか階段に差し掛かっていたようだ。
奏多は慌てて少し前を進んでいる晃を追う。だが、彼より数段手前、ほんの少しだけ奏多の視線が高くなる場所でその足を止めた。
「どうかしたの?」
不思議そうに首を傾げる晃を、奏多はその場に立ち竦んで見下ろす。いつも見下ろしてくる筈の視線に見上げられるのはとても新鮮な心地がした。
「大丈夫?何か忘れ物でもした?」
「わわっ!来ちゃダメ!」
心配そうな顔をしてこちらに戻って来ようとした晃に、奏多は思わず声を張り上げた。辺りに誰もいないのか、静けさの広がっていた廊下に奏多の声は一際大きく反響する。
それに驚いた晃はピタリと動きを止めた。奏多もまた動かない。その視線は晃にしっかりと向けられ、瞬きする事すら勿体ないと思えてしまうくらいにくぎ付けになる。
「ごめんね。もうちょっとだけそのままでいて」
もう少しだけ。あと少しだけ。普段は決して見ることの出来ない晃を見ていたくて、奏多は懇願した。
上目使いは可愛いなんていうけど、困り顔な彼はとても格好よくて、スッと通った鼻筋や長い睫毛がより一層目を引いた。ただ見ているだけ。それだけなのに、奏多の頬は次第に火照っていく。
じわじわと頬が熱くなっていくのを奏多が感じている一方で、晃もまた照れを含みはにかんだ。
「何だか今の奏多は大人びて見えるね」
「えっ………」
「いつも奏多に見上げられているからかな。見下ろされると、また違う表情が見えてくるよ」
スッと晃の手が伸びてきて奏多の頬に触れた。さっきは降ってきた手が、今度は下から差し出される。
彼の指先は、奏多の頬とは逆に冷たい。それだけ奏多の頬が熱くなっているのか、それとも晃が顔に出さないだけで緊張しているのか。あるいはその両方なのか。その答えを奏多が導きだすことは出来なかった。そんな余裕なんてなかった。
「もしかして、奏多も俺と同じ気持ちだった?それとも、俺だけかな?」
「ーー!」
グッと晃の顔が近付く。少し踵を浮かせ、身を乗り出しただけで、晃の視線が奏多とほぼ同じ高さになる。それだけではない。額がコツリとぶつかってしまいそうなくらいに急接近したせいで、囁きと共に吐き出された吐息を、奏多はハッキリと感じた。
これまで視界に入っていたはずの景色が、晃の煌めく目に奪われていく。支配されていく。
そのまま彼に吸い込まれてしまいそうな感覚に陥っていると、また甘い吐息がかかった。
「ねぇ、奏多。今、奏多が考えてることを当ててみてもいいかな?」
クスクスと溢れる笑いがこそばゆい。一気に気恥ずかしさが込み上げてきて、奏多は自分の熱にのぼせてクラクラと目眩を感じた。
混乱を深める思考を彼はどのように読み解くのだろう。期待を含んだ目で見つめながら頷くと、晃の形のいい唇が動いた。
「もっと俺を見ていたい。できることなら……」
ふわり、と吐息とは違う温もりを感じた。柔らかくて、気持ちがよくて、頭がふわふわしそうな大好きな温もりだ。
「こんなことをしてみたい……なんてね」
不意に贈られた口付けに、奏多は目を見開く。動揺して揺らめく視界いっぱいに晃の悪戯な顔が映っていた。
いつもは降りてくる口付け。それが下から与えられただけなのに。唇の重なる角度がほんの少し違うだけなのに。奏多の記憶にあるどの口付けとも感覚が違って、心臓がはち切れんばかりに暴れだした。
触れ合うだけですぐに離れてしまったけど、その余韻はしばらく消えそうになかった。
「さぁ、ずっとここにいるわけにもいかないし帰ろうか」
「う、うん……」
いつもと変わらない様子で再び階段を降り始めた晃に続いて、奏多もその後を追ったのだった。