宵闇の中を光が泳ぐ。とても小さな薄黄色の光は、数えきれないほど大量に辺りに散らばり、闇を照らしていた。
幻想的なその光景を前にして、柚希は一瞬で目を奪われた。
「綺麗…」
ため息と共に、ポツリと感動を呟く。
「ほたる、とってもぴかぴかしてる。バベル、このけしき、すごくすき」
彼女の隣ではバベルが目をキラキラと煌めかせて、圧巻の絶景を澄んだ水色の瞳に映していた。
「バベル君は蛍を見るのは初めてなんだっけ?」
「うん。きょうがはじめて。すごくきれいだから、これてよかった」
「私もこんなにたくさんの蛍を見たのは初めてかも」
「うふふ、ばべるたち、おそろいだね」
「そうだね」
柚希はバベルを見上げる。バベルも柚希を見下ろす。にこやかな二人の視線が交わり、どちらからともなく笑いを零した。とても楽しそうな囁かな笑い声は、サワサワと風に吹かれる草のざわめきにしっとりと溶けていった。
夏の大型連休に向けた観光PRポスター撮影のために訪れたこの地域には、蛍の名所があるのだという。その情報を柚希とバベルが知ったのは撮影の途中のことだった。現地のスタッフから、こっそりと教えてもらったのだ。
今回の撮影自体は蛍とは関係ない別の観光スポットで行われたが、宿泊用に手配していた旅館は偶然にも蛍の生息する場所まで歩いていけるくらいに近かった。そこで、折角だから夜の空いた時間に二人で蛍を見に行こうということになったのだった。
旅館に荷物を預けて。夕食を摂って。翌日の予定を見直して。温泉にゆっくり入って。浴衣に着替えて……。
空がしっかりと暗くなってから、二人でワクワクと心を踊らせながら出かけたのだ。途中の道には街灯はほとんどなく、夜の闇の広がる一本道は不気味だったが、差程怖いとは思わなかった。それはきっと、バベルがそっと手を繋いでくれていたからだろう。
彼の大きな手のひらはとても頼もしくて、触れた場所からは温もりが伝わってきた。怖い気持ちはゆるやかに溶かされて、代わりに安心感が満ちていく。その心地良さを手放したくなくて、柚希はいつの間にかしっかりと指を絡めていたのだ。そして、水辺についてからも手をつないだままだった。
「こんなきれいなけしきをぷろでゅーさーといっしょにみれて、とってもしあわせ」
「私もバベル君と一緒に見られて嬉しいよ」
繋いだままの手にキュッと力を込めると、優しく握り返された。それがなんだか照れくさくて、柚希は頬を仄かに熱くさせる。トクン、トクン、と鼓動を刻む心臓が煩い。
「ぷろでゅーさー」
「どうしたの?」
もしかして大きくなっていく鼓動に気づかれたのだろうか。なんて考えてしまって、柚希はドキリとした。しかし、ふにゃりと柔らかに微笑むバベルは、柚希の予想とは全く異なる言葉を投げかけてきた。
「なんだか、らいぶのきらきらみたいだね」
「きらきら……サイリウムのこと?」
以前、バベルがライブの時にファンが振るサイリウムの光が好きだと言っていたのを思い出す。今、目の前に広がっている光景はライブとは違ってとても静かで穏やかではあるけれど、きっとステージから見えているそれと似ているのだろう。
柚希はその光景を知らない。そしてこの先もステージから見える輝かしい景色を見ることはないだろう。そう思うと少し寂しくなった。
「ぷろでゅーさー、だいじょうぶ?」
「えっ……」
「とってもかなしそうなかおをしてる。どうしたの?どこかいたいの?」
「どこも痛くないよ。ちょっと感傷に浸っちゃったみたい。もう大丈夫だから安心して」
心配そうに見下ろしてくるバベルに、柚希はにこりと笑いかける。そして、彼を笑顔にしたくて一つ謎掛けをした。
「バベル君は、どうしてホタルが光るのか知ってる?」
「ほたるがひかるりゆう?うーん………」
バベルはしばらく首を傾げ、それからしょんぼりと眉を垂れ下げた。
「ぜんぜんわからない。ぷろでゅーさーはりゆうをしってるの?」
「うん、知ってるよ」
「すごーい、ぷろでゅーさーはものしりだね」
「そうでもないよ。前にテレビで見たことがあったから、偶然知ってたの。蛍がああやって光るのはね、求愛するためなの」
「きゅうあい?」
「そうだよ。目の前を光りながら飛んでるのは雄の蛍で、雌の蛍に自分のことを教えようとしているの。雌の蛍は好きな雄の蛍を見つけると応えるようにそっと光って、番になる」
「それじゃあ、あのひかりはほたるのぷろぽーずなんだね」
ロマンチックな結論を出したバベルは、優しく微笑む。辺りを飛び交う蛍の光も加わって、とても綺麗だ。思わず見とれてしまいそうになる。
「ぴかぴかしてぷろぽーず。ふふっ、とってもすてき」
バベルから目が離せない。そんな柚希の内心など露知らず、バベルの顔がゆっくりと近付いてきた。
「ねぇ、ぷろでゅーさー」
バベルの接近は止まらなくて、心臓が跳ねる。
「らいぶのときに、たくさんのきらきらのなかからぷろでゅーさーをみつけるから、そのときはバベルのとくべつなだいすきのきもちを、うけとってね?」
こつん、と互いの額がぶつかる。バベルの綺麗な青色の目が視界に広がって、彼の囁きが唇に吹きかかる。
とても穏やかな雰囲気を纏っているのに、彼の魅力に呑み込まれそうで、柚希は頷くのが精一杯だった。
◆◆◆◆◆
初夏とはいえ日が沈んでしまえば気温は下がり、ヒヤリとした風が肌を撫でていく。じわじわ下がっていく体温に、柚希は身体を震わせた。
チラリと腕時計を確認してみると、もうすぐ22時になろうとしていた。
「バベル君、そろそろ戻ろう」
柚希は軽くバベルの手を引く。
あまり帰りが遅くなると旅館に迷惑になってしまう。それに、身体を休めておかないと翌日の仕事に支障が出てしまうかもしれない。
しかし、彼は柚希の意に反して、その場から動こうとしなかった。
「もうすこしだけ、ここにいたい」
「でも、もう遅い時間になってきたよ」
「おねがい」
バベルの手に強く力がこもる。そのまま引き寄せられて、バランスを崩した柚希はバベルに倒れ込んだ。ぼふり、と彼の胸板に顔を埋めてしまい、慌てて離れようとしたが、腰に回された手によって阻まれた。
「バ、バベル君!?」
「うごかないで」
懇願するような声に柚希の体から力が抜けていく。こんな悲しそうな声を出すなんて反則だ。
「バベルとぷろでゅーさーはべつべつのおへやだから、りょかんにもどったらいっしょにいられなくなっちゃう」
柚希を包み込むバベルの腕の力が強くなっていく。夜風に冷やされた体に、バベルの体温が広がっていく。
顔がピッタリと胸にくっついているせいではっきりと聞こえてくる彼の鼓動は、少し速くて乱れていた。
「バベル、まだぷろでゅーさーといっしょにいたい」
囁きを乗せた息が耳にかかる。誘惑的な刺激にゾクゾクと背筋が震えた。
「じゃあ、もう少しだけだよ」
「ありがとう」
「うん……」
柚希はバベルに体を預ける。もっと、もっと、彼と一緒にいたい気持ちは、彼女も同じだったから……。