大ぶりの黒い犬耳のカチューシャとベルトに付けるタイプの尻尾飾り。
教室に入るなりバベルからそれらを差し出されて、黒羽は怪訝そうに顔を顰めた。
「おい、これは何だ?」
「バベルがよういしたこどうぐです」
得意げに答えた彼にも、同じタイプの白い耳と尻尾が付けられている。更に、傍の椅子に座っている朔空の頭にも金色の耳が付いていて、嫌な予感が黒羽の脳裏を過ぎっていった。
「まさかと思うが、それは俺の分なのか?」
「そうだよ!さんにんでおそろい!」
バベルはニコニコと笑いながら頷く。外れてほしかった予感が当たってしまい、黒羽はガクリと肩を落としたのだった。
『はろうぃんのひに、くろと、さくと、しゃしんがとりたい』とバベルからお願いされたのは数日前のことだ。ハロウィン当日は大きな仕事もなく、バベルの思い出作りに協力出来るのならばと、黒羽は彼の申し出を快く承諾していた。
もちろん、ハロウィンなのだから軽い仮装くらいはするかもしれないと予想はしていた。しかし、せいぜいバベルがかぼちゃのランタンを持つくらいだろうと思っていたし、自分の仮装道具まで用意されているなんて全く考えてもいなかったの。しかも、よりによって犬耳と尻尾だ。バベルは様になっているから問題ないし、朔空もあざとく見えるからいいだろう。だが、自分にこんな可愛いものが似合うとはどうしても思えなかったのだ。黒羽は試しに耳と尻尾を身に付けた姿を想像してみたが、違和感しか抱けそうになかった。
「これは付けないといけないのか……」
黒羽が立ち尽くしたまま耳と尻尾を見下ろして渋っていると、朔空の困ったような声が聞こえてきた。
「もぅ、折角バベルが用意してくれたんだからさ、そんなに嫌そうな反応しないでよ」
「そうは言ってもだな………」
黒羽は、ふと二年前のハロウィンのことを思い出す。
あの時の格好は黒猫だった。しかも耳と尻尾だけではなくて、ご丁寧に服まで準備されていたのだ。見るからに可愛らしくて、着た途端に恥ずかしさが込み上げてきて仕方がなかったのを覚えている。更に、あの時はプロデューサーに見られてしまうという失態まで起こしてしまっていて、いい思い出なんて一つもなかった。こんな格好、二度とするものかと思ったくらいだ。
「ねぇ、くろ…」
忘れていたかった嫌な記憶に黒羽が苛まれていると、ふとバベルの顔が近付いてきた。
「くろ、バベルたちとしゃしんとるのいや?」
「いや、それは………」
しょんぼりとした彼の表情に、黒羽はたじろぐ。
「別に嫌というわけではないが……」
「でも、さっきからずっとむすっとしてる。もしかして、バベルがわがままいったから、おこってる?」
「ち、違う!怒ってはいない。えっと……」
上手く言葉が出てこなくて、黒羽は口ごもる。しかも、泣きそうなバベルの視線が更に黒羽を焦らせた。
頭に付いている耳のせいだろうか、彼がまるで大きな子犬に見えてしまう。目もとてもウルウルしていて、まるで捨てられた子犬だ。
「………仕方がないな」
黒羽は深々とため息をつく。こんな目で見つめられたら、自分だけ仮装を断るなんて出来るわけがなかった。
「俺が悪かった。犬耳だろうが、尻尾だろうが、付けてやる」
黒羽はバベルから装飾品を受け取る。そして、それらを身に付けた。
「くろ、ありがとう。バベル、うれしい」
途端にバベルの表情がパッと明るくなる。
「ふんっ、こんな格好をするのは今回だけだからな」
「もう、黒ってば素直じゃないんだから」
ふとクスクスと笑い声が聞こえてきた。黒羽がバベルから視線をずらすと、朔空が楽しげに笑っていた。
「じゃあ、ようやく黒もその気になってくれたことだし、さっさと写真撮っちゃおっか」
「はーい」
元気のいい返事と共に、バベルが黒羽に抱きつく。
「くろは、バベルのとなりだよ!」
「じゃあ、俺はこっちに行こうかな」
更に反対側にスマートフォンを持った朔空が寄ってきて、黒羽は二人に挟まれるかたちになった。
言い出しっぺというか、今回の主役はバベルなのだから、彼を中心にした方がいいのではないか。そんな疑問を黒羽は抱いたが、バベルは彼の腕にしっかりとしがみつき離れる様子はなさそうだった。見たところ本人は気にしてなさそうで、黒羽は余計な事は言わない方がいいかと黙っておくことにした。
「二人とも、カメラのレンズの方を見てね」
自撮り設定のディスプレイに、三人の顔が映し出されている。いざ自分の姿を見てみると、抑えていた恥ずかしさが再び込み上がってくる心地がした。
黒羽は何とか笑おうと意識してみたものの、ディスプレイに映るその顔はずっとぎこちないままで、結局そのままシャッターは押されてしまったのだった。
「どう、ちゃんと撮れてる?」
「うん、とってもいいかんじ」
実際に撮れた写真を三人で覗き込む。バベルと朔空が笑っている中で、黒羽だけは笑いより恥ずかしさが勝った顔になっていた。それでもバベルは満足したようで、嬉しそうにはにかんでいた。
「くろ、さく、バベルのわがままにつきあってくれてありがとう」
「どういたしまして。写真を撮るくらいなら、また付き合うよ」
「俺も構わない。だが、次は普通の格好にしてもらえるとありがたいな」
「えー、いまのくろ、すごくかわいいのに」
「可愛いは勘弁してくれ」
やはりバベルの目にも可愛く映っていたようだ。黒羽は項垂れつつ、カチューシャを外そうと手を伸ばした。
「まって」
しかし、寸のところでバベルに手を掴まれた。
「どうした?」
「バベル、まだおれいをしてない。だから、まだそれははずさないで」
「別に礼はいらないぞ。それに、これを外さない理由にはならないだろ」
「りゆうならあります。せっかくおおかみのかっこうをしてるから、おおかみのやりかたで、くろにありがとうがしたいの」
「すまない、言っていることがさっぱり理解できないんだが…」
黒羽は困惑して首を傾げた。
狼のやり方って何なんだ。一体何をするつもりなんだ。そして今更だが、これは犬ではなくて狼だったのか。いずれにせよ、この胸騒ぎは何だろう…。
バベルの行動が全く予測が出来ない。しかし、そこそこ付き合いが長いからだろうか、嫌な予感がして仕方がなかった。
不意にバベルが首元に顔を埋めてきた。そのまま甘えるようにグリグリと頬を押し付けてきたかと思うと、突然首にぬるりとした生暖かい感覚が広がったのだった。
「っ!」
黒羽は思わず声にならない叫びを上げた。
舐められた。少し遅れてから、そう理解した。黒羽は咄嗟にバベルから離れようとしたが、背中に腕を回されてしまい、逆に引き寄せられた。
「バベル、何してるんだ!」
黒羽は何とかバベルの腕から抜け出そうと身を捩ってみたが、あまり効果はなさそうだった。焦る黒羽と打って変わって、バベルは余裕そうににっこりと微笑む。
「おおかみは、うれしいやだいすきのきもちを、なめてひょうげんするって、さくがおしえてくれた。だから、くろを、ぺろってした」
「朔ぁぁぁ空ぅぅぅぅ」
黒羽は恨めしげに彼の名を呼ぶ。きっと、こうなることを予測して、前もって入れ知恵していたのだろう。バベルに抱きしめられているため朔空の顔は見えないが、今頃笑うのを懸命に堪えているに違いない。現に、押し殺した笑い声が僅かに聞こえていた。
今すぐにでも文句の一つでも言ってやりたいところだが、バベルはまだ解放するつもりはないようだった。首だけで終わるかと思っていたが、彼の舌は頬や口角、瞼など、あらゆる箇所を移動して、むず痒さと擽ったさに耐えられず、黒羽はキュッと目を閉じることしか出来なかった。
そのまましばらく耐えてようやく開放された時には、顔が唾液でべったりと湿っていた。
「あはは、よかったじゃん」
まるで他人事のように話しかけてくる朔空を、黒羽は睨む。もちろんそれで彼が悪びれる様子はなかった。
その様子にカチンときた黒羽は、ぼそりとバベルに囁いた。
「なぁ、バベル。俺だけに礼をするのは朔空に悪くないか?」
流石にやられっぱなしでは癪に障る。朔空も同じようにたくさん舐め回されてしまえばいいのだ。そんな黒羽の心情など露知らず、バベルは快く頷いた。
「うん、そうだね。さくにも、ありがとうってたくさんつたえなくちゃ」
「えっ、ちょっと待って」
バベルの返事を聞いて、朔空はすぐさま後ずさる。だが、ギリギリのところでバベルに手を捉えられた。朔空の顔が一気に引き攣る。
「あのさ、俺は普通にお礼を言ってくれるだけでいいから」
「えんりょしなくていいよ」
グイグイと引き寄せられ、さっきの黒羽のように朔空はバベルの腕に包み込まれる。こうなってしまえば、逃げることはほぼ不可能だろう。
「さくにも、たくさんありがとうをあげるね」
「いやいや、遠慮しとくから。ねぇ、バベル、近い!近い!」
どんどん焦って取り乱す朔空を見て、黒羽は自業自得だと鼻で笑った。
「ちょっ、本当に、止め、くすぐった………ふっ、あははは」
バベルの舌が朔空の首筋を滑っていく。温かい擽ったさに耐えきれず、朔空は笑いだす。バベルは、それを喜んでいると思ったようで、黒羽よりも念入りに朔空に舌を這わせていた。
「さく、うれしそう。もっとなめてあげる」
「待って、ははっ、くるしっ……あはははっ………」
黒羽は仲良くじゃれている朔空とバベルをしばらく眺め、その後で側に置かれていたスマートフォンに視線を映した。改めてさっきの写真を確認してみると、やはり彼は恥ずかしさを拭いきれていない顔をしていたが、ほんの少しだけ嬉しいような、楽しいような、そんな表情をしている気がした。
止まらない朔空の笑い声を聞きながら、今年も忘れられないハロウィンの思い出が出来たようだと、黒羽は小さく笑ったのだった。