良薬は口に苦し、という言葉がある。しかし、今では苦さをカバーした薬は世の中にたくさん存在する。つまり、敢えて苦い薬を選ぶ必要などないはずだ。それなのに、何故彼はこんな不味い薬を選んできたのか。目の前に差し出された水の入ったコップと漢方薬を見て、朔空は顔を顰めたのだった。
「ねぇ、確かに風邪薬が欲しいって頼んだのは俺だけど、どうして漢方薬を買ってきたわけ?」
「さく、このおくすりきらいだった?」
朔空の問いかけに対して、薬を買ってきた張本人であるバベルは不思議そうに首を傾げた。きっとバベルからすれば、いいものを選んだつもりなのだろう。少しでも悪戯心が見て取れたならば文句を垂れようと思っていた朔空だったが、キョトンとしたバベルを見ている内にそんな気持ちはそぎ落とされてしまった。
もともと風邪のせいで気怠いのに、更に力が抜けていく心地だ。
「ごめんなさい。どんなおくすりがいいのか、さくにくわしくきいておけばよかったね」
「いや、俺も風邪薬としか言わなかったわけだし、もうそれでいいよ」
風邪に効く薬を買ってきてもらえたのだ。それだけでもよしとしておこう。
朔空は自分にそう言い聞かせて、渋々とバベルから漢方薬を受け取る。それから、箱に書かれた飲み方を確認した。毎食間に2袋ずつ。食欲もわかなくてほとんど食事を摂っていないから、今から飲んでも差し支えはないはずだ。
「うえっ、まずそう」
しかし、空きっ腹に漢方薬の匂いはキツすぎたようだ。袋を一つ開けた途端に漂ってきた独特な香りに、朔空は苦そうな顔をした。
「さく、がんばって。おくすりのまないと、なおらないよ」
「分かってるよ」
自分の身体の事は嫌でも分かる。熱もかなりあるし、頭も耳も喉も痛くて堪らない。力も上手く入らず、鼻も詰りは始めている。早めに対処しておかないと、拗らせてしまうのは目に見えていた。
さっさと薬を飲んで、少しでも栄養を摂って、寝る。それが最善なのだ。
朔空はゴクリと僅かな唾を飲み込んで、一気に漢方薬を口に流し込む。その後で、バベルが準備していたコップの水を大量に口に含んだが、舌いっぱいに苦味が広がっていった。
「まっずい!」
思っていたよりも酷い味がして、朔空は思わず悪態を吐く。これをもう一つ飲まないといけないと思うと、気が滅入りそうだった。
「さく、だいじょうぶ?」
「全然大丈夫じゃない」
「うーん、おかしいな」
こちらを見下ろしてくるバベルは心配そうというより、不思議そうな表情をずっときている。それが朔空には引っかかった。
「あのさ、何か気になることでもあるわけ?」
「うん。さくは、このおくすりのあじがすきだとおもってたから」
「何でそうかるわけ?赤羽根君にでも吹き込まれたの?」
「ちがうよ。あのね、さっきくすりやさんにいったら、じょしこうせいたちが、このおくすりのおはなしをしてたの。せいえきのあじににてるって」
「はぁ?」
せいえき?精液?
話が飛躍しすぎて、朔空は自分の耳を疑った。
「精液の味?似てるかどうかは置いておくとして、どうして俺がそんな味が好きって結論になるの?わけ分かんないんだけど」
これは流石に笑えない。きっと不機嫌さが顔に出てしまったのだろう、バベルはしゅんと縮こまった。
「あう、ごめんなさい。でも、さくはバベルのせいえきをいつもおいしいってのんでるよ?すきじゃないの?」
「いやいや、それは場の雰囲気で飲んでただけだから。美味しいってのも建前だからね」
「じゃあ、バベルのをのむとき、いやなのにがまんしてたの?」
「うーん、そういうわけでもなくて……って、そんな悲しい顔しないでよ。なんて言ったらいいかな、バベルとする時は飲みたくなるというか、バベルのだからいいかなって………」
途中まで反論して、朔空は恥ずかしくなってきて口を閉ざした。頬がものすごく熱くなってたが、きっと風邪のせいではないだろう。
何だか気まずくなって、朔空はちらりとバベルの様子をうかがる。バベルは面食らった顔をして固まっていた。
「さくは、バベルのせいえきだから、すき。バベルだけ、とくべつ?」
硬直していたバベルの表情が、ゆっくりと緩んでいく。ふにゃりと柔らかになる彼を見て、
「ごめん、さっき言った事はなかったことにして!」
恥ずかしさに耐えきれず、朔空は咄嗟に布団を被ろうとした。しかし、すぐにバベルに無理やり剥がされてしまい、嬉しそうに目を輝かせた彼の顔が至近距離まで近付いてきたのだった。
「バベル、近い!近い!」
迫るバベルを押しのけたくても、風邪のせいで力が入らない。そのまま倒れ込む形でバベルは覆いかぶさってきた。
「さく、とってもあついね」
「熱出てるからね。ねぇ、感染したら大変だからどいてよ」
「いいよ。でも、さくがちゃんとおくすりをのめたらね」
「えっ………」
ふと、目の前が暗くなる。バベルに手で目を覆われたのだ。体温が高いせいで、バベルの掌がひんやりして感じて心地いい。
「じっとしててね」
腹部にずしりとした重みを感じる。きっと、バベルが跨ってきたのだろう。目隠しされているせいで彼が何をしているのか分からない。
病人相手にそこまで強引なことはしないはずだと思いつつも若干の不安を抱いていると……
「飲め」
「ーーー!」
不意に低い声に耳を擽られたのだった。全身に響くような低音に、朔空の体は思わずビクリと震わせる。しかも、ツンとした強い匂いが鼻を突いて、ふと夜の一時を思い起こした。
漢方薬を押し当てられているのは分かっているのに、ゴクリと喉が鳴る。バベルのモノを迎え入れる時のように、自然と口が動いてしまう。
「いい子だ。もっと、口を開けろ。出来るだろう?」
バベルの指が唇に触れる。そして口をこじ開けるようにして、下唇を強く押してきた。
朔空はされるがままに口を大きく開く。
「お利口さんだな。ほら、褒美をくれてやる。全部飲み干せ」
「う、ん……」
コクリと朔空が頷くと、ザラッとしたものが口内に流し込まれた。次いで水がゆっくりと注がれ、朔空は噎せないように慎重に喉を動かした。
熱くて硬いモノでも、生臭いドロリとしたものも違う。もちろんそれは分かりきっていたが、それらを飲み込んでいる時を彷彿とさせられ、ゾクゾクの背筋が震える心地だった。
「…っはぁ、全部、飲めたよ」
「見せてみろ」
またバベルに口をこじ開けられた。唇を這う指先が気持ちいい。朔空は熱い息を吐き出しながら、彼から解放されるのを待った。
「よくできました」
体が軽くなる。視界に光が戻ってくる。柔らかな声と、いつものふんわりした微笑みを浮かべたバベルの表情に、朔空はほっとしつつも、僅かな名残惜しさを感じた。
「さく、さっきよりもおかおがあかいよ。だいじょうぶ?」
「誰のせいだと思ってるの?」
「もしかして、バベルのせい?バベルとしてるときをおもいだして、どきどきした?」
「…………煩い!」
朔空はもう一度布団を深く被る。今度は布団を剥がされることはなくて、ふわりとした柔らかさが彼を包み込んだ。
しばらく静かな時間が流れたあと、僅かにカチャカチャと物音が聞こえてきた。バベルがコップや薬を片付けているのだろう。
「おやすみ、さく」
布団越しに優しい声が聞こえてくる。朔空は黙ったまま、バベルに背を向けるようにして寝返りをうった。口の中にはまだ薬の苦味と独特な後味が残っていて、鼓動も全く落ち着いていない。しばらくこの余韻は続きそうだ。
(あー、もう。何これすごく不味いんだけど…。バベルの方が全然美味しいじゃん)
朔空は内心で悪態を吐きつつ、ゆっくりと目を閉じた。