僅かに開けた窓の隙間から、柔らかな春風が吹き込んでくる。冬の面影を感じさせない温かさと一緒に、仄かな甘い香りが通り過ぎていく。
黒羽は心地良さげに目を閉じ、朔空はのんびりと安らぎに浸っていた。そして、バベルは上機嫌に鼻歌を歌い、コロコロと口の中で飴を転がしていた。甘い香りは彼から漂っている。
「バベル、今日もそれ舐めてるの?」
「うん。いちにちひとつ、おしごとがおわったら、ごほうびになめるってきめてるの」
バベルが飴を舐め始めたのは数日前からだ。兄であるエヴァからロケのお土産としてもらったらしい。春限定の桜の味の飴なのだと嬉しそうに語っていた。
「ねぇ、バベル。いっつも美味しそうに舐めてるけど、桜味ってどんな感じなわけ?」
「どんな?えっとね、おはなのかおりがおくちのなかでふわーってなる」
「うん、それはそうだろうね」
自分の隣りで繰り広げられる他愛もい会話に耳を傾けながら、黒羽は微笑む。昔では考えられないまったりとした一時だ。午前の打ち合わせが終わり、午後からは仕事は入ってないのに、三人で空いている教室でのんびりと過ごす。もちろんそれぞれ予定があるからそれまでの時間つぶしなのだが、こうやって共に時間を共有する時間は着実に増えていた。
こういう時間の過ごし方も悪くない。そう思いつつ、黒羽はスーパーのチラシを取り出す。そして、二人の会話を聞きながら目を通し始めた。タイムセールまでまだ数時間ある。今のうちに買うものの目星を付けておこう、と。
だが、そんな落ち着いた時間は朔空の悲鳴とガタッと倒れた机の音で遮られた。
「どうしたんだ!?」
二人の会話の内容まではしっかり聞いていなかった黒羽はわけが分からず、交互に両者を見やる。朔空は尻餅をつくような体勢でヘタリ込み、バベルは目をぱちぱちさせてる。朔空は顔を両手で覆っているため表情は読み取れないが、赤くなっている頬と耳から大体のことは予測できた。
「バベル、朔空に何をしたんだ?」
こういう時はバベルが何か仕出かした時だ。だが、バベルはうーん、と首を傾げるだけだ。とぼけている素振りはないから、きっと無意識だったのだろう。
「バベル、なにもしてないよ?」
「じゃあ、朔空が勝手に転んだのか?」
「ちがうよ。えっとね、さくがバベルのあめのあじがきになるっていったからちょっとだけあじみしてもらったの。そしたらおどろいて、しりもちをついた」
「味見?」
バベルは頷く。一体味見でどうすればこんな事になるのか。そもそも、飴の味見なんてどうやってするつもりだったのか。
「あのね、このあめとってもやさしいあじがするの。はるのあじ。くろもあじみする?」
「うん?」
分からないままに黒羽はバベルを見上げる。彼の顔に影がかかったのはほぼ同時だった。
バベルの顔が近い。透き通った青い目に視線が吸い込まれて動けない。頬に手が添えられて、それから………。
「んっ……」
唇に柔らかな温かさが広がり、そこから仄かに甘い味が広がっていく。黒羽は突然の事に身動きすらとれず、ただ伏せられたバベルの目を見つめていた。
「どう、おいしかった?」
バベルの拘束はあっという間だったが、その余韻は黒羽にまとわりついてしばらく離れそうにない。きっと朔空も同じ目にあったのだろうと理解はしたが、黒羽に彼を気にかける余裕はなかった。
黒羽は口元を押さえて俯く。顔が熱い。心臓がドキドキする。それなのに吹き込んでくる風は憎々しいくらいに穏やかだ。
「ねぇ、くろ」
「何だ?」
「あめ、どんなあじがした?」
首を傾げて尋ねてくるバベルに、黒羽は言葉を詰まらせる。口の中に仄かに残った後味は、爽やかで、優しくて、甘くて………まるで恋の様な味だったから。