ミーティングのために確保しておいた教室に入るや否や、奇妙なものが黒羽の視界に飛び込んできた。ポスターくらいの大きさの紙で、やたらとカラフルかつポップな文字で『三人とも全裸にならないと出られない部屋』と書かれている。更に右下にはクマ校長の似顔絵が腹立たしい笑顔でデカデカと描かれていた。
「何だ、これは……」
無視しようにも、教室の真ん中にある机の上に目立つように置いてあるそれに、黒羽は怪訝そうに顔を顰めた。少し後ろにいた朔空も不愉快に思ったようで、目が座っていてとても怖い。バベルさえもが無表情を浮かべていて、三人の周りに気まずい空気が漂った。
僅かに開いている窓からは、今の空気とは正反対に爽やかな風が吹き込んでくる。本当ならば心地よく風に吹かれながら、次の演出の案を出し合うはずだったのだが、どうしてこんなことになってしまったのか。
おそらくこれを作ったであろうクマ校長に心の中で文句を吐きつつ、黒羽は傍にあった椅子に腰掛ける。そして、なるべくポスター紙を気にしないようにしようと努めた。
「おい、いつまで突っ立っているつもりだ。早く話し合いを始めるぞ」
「うん、そうだね」
朔空も続いて椅子に腰を下ろす。それに続いてバベルもちょこんと椅子に座ったのだった。
しかし、中々は話し合いはスムーズに進みそうにはなかった。それもこれも、あの奇妙なポスター紙……正しくはそこに描かれているクマ校長のせいだ。やけに視線を感じて仕方ない。ことある事に会話が途切れ、キョロキョロと当たりを見回してしまう。もちろん話に集中することなんてできなかった。
そのまま刻々と時間だけが過ぎていく。その中で最初に限界がきたのは黒羽だった。
「全く、これだと時間の無駄遣いだ」
イライラと言葉を吐き捨てながら、黒羽は立ち上がる。そして、例の紙のところまでズカズカと歩み寄ると、無造作に掴みあげた。本当はグシャグシャに丸めて捨ててしまいたかったが、その気持ちは必死で飲み込んで折りたたむ事にした。
「黒、待って!」
一度紙を山折りにしたところで、ふと朔空が静止の声を上げた。朔空は黒羽の持つ紙に目を凝らしているように見えた。
「どうしたんだ」
「そこに何か書いてあるみたいだけど」
そう言われて、黒羽は紙の裏側に目を落とした。すると、朔空の言った通り、表よりずっと小さな文字が綴られていた。どうせろくな内容ではないだろう、と思いつつも念の為に内容を確認する。そして、眉間に皺を寄せた。
『もしかしてお茶目な悪戯かと思ってるかな?残念だけど、クマさんは本気だよ。早くしないと本当に出られなくなっちゃうから急いでねー』
一体どこまでふざけるつもりなのか。沸々と苛立ちが募っていく。それと同時に一つの懸念も浮かびだして、黒羽は紙を手にしたまま恐る恐る扉へと近付いた。
「黒、なんて書いてあったの?」
朔空が横から声を掛けてきたが、それには答えずに扉に手をかける。そしてグッと力を込めて開けようとしたのだが、扉が開くことはなかった。もちろん部屋に入ったあとで施錠なんてしてない。
「まずい、閉じ込められたかもしれない」
「えぇっ!?」
黒羽の言葉に朔空とバベルも立ち上がる。そして、黒羽のいる扉以外の窓や扉も開くかどうか確かめ始めた。外に面した窓は自由に開けることができたが、廊下側はビクともしない。しかもここは三階だ。窓から外へ脱出しようものなら大怪我をしかねない。つまり半密室と言っていいような状況なわけで、三人は焦りを覚えた。
「これ、冗談じゃなかったわけか」
朔空は黒羽が持っていた紙を一瞥して、頭を抱える。そんな彼を慰めるように、バベルがポンポンと背中を叩いた。
「おそとにでるには、ぜんらにならなきゃいけないのかな」
「このタチの悪い紙を信じるならそうなるな。だが……」
ずーん、と重たい空気が三人の間に漂う。ここは学園内の普通の教室の一つだ。いつ、誰が通りかかるかも分からない。そもそも、クマ校長の悪ふざけなのはほぼ明らかだし、この様子をどこかで監視しているかもしれないのだ。
やむなくクマ校長の指示に従うだけでも癪なのに、その上全裸を晒すなんて考えたくもなかった。
「全く、こんなことに時間と手間を費やすなんて何を考えているんだ」
「本当だよ。もっとマシな企画を立ててほしいね」
「バベルも、こういうどっきりはすきじゃない」
口々に文句を言いつつ、三人で手分けして脱出する手段がないか探し回る。ガタガタと窓や扉を揺らしてみたり、外から助けを呼んでみたり、あれこれと思い浮かぶことは一通りやってみた。しかしどれもこれも上手くいかなくて、無意味な時間ばかりが過ぎていく。そのまま小一時間が経過し、体力的にも気力的にも疲れが溜まってきて、それそれ近くの椅子にぐったりと腰を落としたのだった。
「……駄目だな」
「スマホも圏外になってるし、それ以上はお手上げかもね」
朔空が吐き出した諦め混じりのため息が、静かな教室に響く。それに続いて、バベルもううーっと小さく唸った。
万事休す、とはこういう時の事を言うのだろう。
「くろ、さく……….」
「どうした?」
「バベル、おようふくをぬごうとおもう。そしたら、すぐにそとにでられる」
「えー、それ本気で言ってるの?」
「うん。じゃないと、ずっとこのままだとおもうから。バベル、きょうはおにいちゃんとやくそくしてることがあるから、おそくかえれないの。くろだって、このままだとたいむせーるにまにあわなくなるよ」
「ぐっ………、それはそうだが………」
バベルに痛いところを突かれて、黒羽は苦い顔をした。今日は肉の特売日だから、絶対に逃したくはなかったのだ。頭のなかでプライドと特売日が天秤にかけられ、グラグラと揺れる。
「ちょっと、バベル。黒を味方に付けようとしないでくれない?」
「でも、バベルははやくここからでたい。だから、しゅだんはえらびません」
「あっそ、やるなら勝手にしてよね。俺はやらないから」
「さんにんでぬがないといみがないからだめです。いやなら、バベルがちからずくでぬがせます」
「はっ?冗談でも笑えないんだけど」
「バベルはほんき。さくをぬがせて、バベルもぬぐ」
「そんな無理心中みたいな事言わないでくれる?ねぇ、黒もずっも黙ってないでバベルを止めてよ」
頭の中で葛藤を繰り広げていた黒羽は、朔空の声にハッと我に返る。横を見ると、バベルが朔空に迫ろうとしていた。いつもののんびりした雰囲気はなく、有無を言わさない気迫に思わず押されそうになる。実際に、黒羽の体は一瞬硬直した。
「バベル、取り敢えず落ち着け。脱ぐならカーテンを閉めてからだ」
「脱ぐこと前提で話を進めないで!」
即座に朔空が言い返してきた。黒羽自身も自分は一体なにを言っているのだろうかと唖然としたが、これ以上あれこれ考えたら頭がどうにかなってしまいそうだった。
黒羽は、一度気持ちを落ち着けようと深く息を吸って、吐き出す。そして頭の中を整理して、口を開いた。
「朔空、もう諦めろ」
シンッと辺りが静かになる。朔空もバベルも目を見開いていた。黒羽から出た言葉が予想外だったからだろう。まるで時間が止まったかのような静寂が広がったが、
「絶対に嫌だ!」
朔空の悲鳴でさっきまでの慌ただしい空間へと戻った。
「えぇい、煩い!つべこべ言わずに従え」
もちろん全て受け入れたわけではないから、黒羽は半ばヤケになりながら朔空に迫る。そして、バベルに手を掴まれて無抵抗になっている彼のベルトに手をかけた。
もちろん朔空が素直に従うわけがなくて、バタバタと足を動かして暴れようとした。
「さく、むだなていこうはよして」
「まだ無駄じゃないかもしれないでしょ」
「俺たち二人相手に適うはずもないだろ。ほら、大人しくしてろ」
「嫌だって。てか、カーテン閉めたら!俺を脱がせて外に晒すつもり?」
「…………そうだな、すまない」
「そこは真に受けないでよ!」
朔空の抗議の声は止まらない。黒羽は申し訳なくなりつつも、バベルに朔空を預けて一人で窓の方へ向かった。背後で朔空が「本当に窓閉めにいかないでよ!」とかずっと叫んでいて、バベルに宥められていた。
これだけ騒げば誰か来てもおかしくないのに、廊下に人の気配はない。カーテンを閉めようとして一度外の様子を見てみたが、足音や人の声は全くなく、人影なんて見当たりそうになかった。まるでこの教室だけ別の空間に切り取られてしまったようだ。その気味の悪さに背筋がゾッとしたが、黒羽はぶんぶんと首を左右に振って気を紛らせた。そして、全てのカーテンを閉めて二人の元へ戻ったのだった。
「さてと、さっさと終わらせよう」
未だに迷ってはいる。不本意でもある。でも、この空間にずっと居たくないという気持ちの方が勝っていて、黒羽は覚悟を決めて朔空の服に手を伸ばした。
「待って!待って!俺から脱がすつもり?」
「仕方がないだろ、お前が嫌がるから」
「嫌なのは当たり前でしょ。脱がされるなんて尚更嫌だよ。それに、脱ぐなら黒が先に脱いでよ」
「………分かった」
未だに諦めない朔空に黒羽はため息を零す。しかし、嫌がっているのに力ずくで脱がされるのが嫌だという気持ちも分かるから、まずは朔空の要望を飲むことにした。
黒羽はちらりとバベルを見る。この中で一番体が大きいからか、一人で朔空を押さえておくのにそう苦労はしていなさそうに見えた。
「バベル、もう少しそのまま朔空を押さえといてくれ」
「はーい」
間延びしたバベルの返事に、少しだけ張り詰めていた気が緩む。黒羽は不安を息と一緒に吐き出して気持ちを落ち着かせてから、ゆっくり服を脱ぎ始めた。
普段からロッカーや楽屋で一緒に着替えをすることはあるが、教室という空間のせいでどうしても恥ずかしさと気まずさは拭えそうにない。それでも、上着、シャツ、インナー、ズボン……と一つ一つ服を脱ぎ捨てていく。そして、最後にパンツに手をかけたところで、ふと動きを止めた。
「すまない、せめてパンツは最後にさせてくれ。一人だけ全裸になるのは流石に恥ずかしい」
黒羽はもごもごと口ごもる。
「その、パンツは一斉に……脱がないか?」
ここまでやって朔空も若干諦めが付いたのか、二人から反対の声はなかった。
「じゃあ、バベルもぱんついがいぬぐね。さくはどうする?バベルたちがぬがせてもいい?」
「………もういいよ。無理やり脱がされるなんて、プロデューサーちゃん以外には勘弁だよ」
朔空の体から力が抜ける。バベルが腕を解いても、朔空は大人しくしていた。その様子に黒羽はホッとした。
「ほら、さっさと外に出るぞ。脱げ」
「分かったよ」
春が来たとはいえ、まだ教室の中は肌寒い。黒羽は次第に冷えていく体に身震いしながら、ゆっくりと服を脱ぐ二人を見守った。
「そんなにガン見しないでよ」
「くろのえっち」
「どうしてそうなるんだ!」
いつの間にか普段の調子が戻ってきたようで、からかわれつつも黒羽は笑う。朔空の表情も幾分か柔らかくて、バベルは柔らかな笑いを浮かべた。
そこからの行動は早くて、三人揃ってパンツ一丁になるのはすぐだった。
「さて……」
しかし、いざパンツに手をかけるところまできて、再び羞恥が沸き起こってきてしまい、黒羽の指先は僅かに震えた。
「どうしたの、ここまできて怖気付いた?」
「いや、そういうわけでは……」
「俺が嫌だって言っても無視したくせに、生意気」
朔空はズカズカと黒羽の方へ歩み寄る。そして、乱暴に黒羽のパンツを掴んだ。
「おいっ!」
まだ心の準備が……と続けようとした言葉は
「バベル!」
「がってんしょういのすけ!」
という二人の掛け合いに遮られてしまった。同時に、朔空とバベルによって黒羽はパンツを呆気なく奪われ、勢い余って尻もちを付いた。突然の事で反応が遅れたのと、肌を衝撃から守るものを何一つ纏っていなかったせいで、かなりの痛みを臀部に感じた。
「痛……」
ヒリヒリと熱の籠った痛みが広がり、黒羽は顔をしかめる。そのまま二人をにらみ上げると、目の前に肌色が広がった。
「あははっ!黒ってばどんくさい」
「くろ、だいじょうぶ?おしり、あざできてない?」
どうやら二人も一思いにパンツを脱いだらしい。それはいいのだが……
「ちょっ、お前達!近すぎだ!」
転んだのを起こそうとしているだけなのか、わざとなのか、丁度目の前に二人の股間が迫ってきて、黒羽は咄嗟に後ずさった。尻がすれて痛かったが、気にせず距離を取る。
「黒、そんな恰好で逃げ回らないでよ。恥ずかしくないの?」
「お前達だって変わらないだろう。とういか、これで出られるよな」
鍵が開いたような気配はない。黒羽が気付かなかっただけかもしれないが、朔空もバベルも若干不安そうな表情をしていた。
「とびら、あけてみる?」
「待て!せめて服を着てからにしろ」
全裸のまま扉を開けに行こうとしたバベルを黒羽は止める。もしこれで扉の外に誰かいたら大惨事だ。万が一にクマ校長が『どっきり大成功』なんて看板を持って立っていたら、怒りと悔しさと恥ずかしさでどうにかなってしまうかもしれない。
朔空もこのままでいるのは嫌だったようで、さっさと服を着始めていた。それに続いて黒羽も服に手を伸ばす。ついでにバベルの服もかき集めて、彼に渡した。
「さてと……」
三人とも服装を整えてから、最初に入ってきた扉に向かう。心なしその足取りは遅く、恐る恐る前に進んでいく。
「黒…」
「分かっている」
扉の前まで来たところで、朔空に催促されて黒羽は取っ手に手を伸ばした。そしてゆっくりと手を動かすと、さっきまでビクともしなかった扉は難なく開いたのだった。
「ひ、開いたぁぁー」
教室から脱出し、三人揃って歓声が上がる。そのまま勢いで抱き合ってワイワイと喜び合った。あの奇妙な空間から出られた安心感に泣きそうだった。
しかし謎の感動も束の間で、背後から近づいてくる影に気付いた三人は固まった。
「三人ともどうしたの?何かあったの、大丈夫?」
とても心配したような聞き慣れた声。出来れば気のせいであってほしかったのだが、振り返った先にはプロデューサーが立っていた。
「ええっ、本当にどうしたの!泣いてたの?」
彼女は三人の顔を見てギョッと目を見開いた。
「な、なな、泣いているわけがないだろう。なぁ?」
「えっ、うん。俺達が揃って泣くわけないでしょ?」
「そうだよ。バベルたちはなんともないよ」
まさかこの場で彼女に居合わせてしまうなんて。今、一番会いたくないであろう人物と対面してしまい、三人ともしどろもどろに焦りを露わにした。
さっき起きたことを誰にも知られるわけにはいかない。特に彼女だけは全体に嫌だった。
そこで、例のやたらと目立つポスター紙の存在を思い出した黒羽は慌てて教室に目を向けた。あの内容を見られたら不味い。そう思って…。
しかし、さっきまであったはずのポスター紙は忽然と姿を消していた。かなり派手なのに、机の上はもちろん、床にも落ちている様子はなかった。窓から飛ばされた可能性もなくはないが、しっかりとカーテンを閉めていることを考えると可能性は低いはずだ。
一体どういうことだ。
やはり奇妙だ。黒羽はぞわぞわとうすら寒いものを感じた。朔空とバベルはプロデューサーの対応に必死で気付いていないようだ。
「ねぇ、顔色が悪いよ?保健室に行った方がいいんじゃない?」
不気味な心地から彼を引き戻したのはプロデューサーだった。彼女に声をかけられ、まるで悪い夢から覚めたように黒羽はハッと意識を教室からこちら側に戻した。
「熱とかないよね?」
彼女の手が冷や汗を浮かべた黒羽の額に伸ばされる。その手は寸のところで朔空に阻まれた。
「黒は大丈夫だから心配しないで。それよりさ、今すごく気晴らししたい気分なんだよね。よかったらこの前オンスタで見つけた可愛いパフェのお店にいかない?」
「えっ、別に今日は用事はないから大丈夫だけど…」
「本当に!じゃあ、さっそく行こうよ」
「ぱふぇ!バベルもパフェたべたい!」
「バベルはエヴァ君達と用事があるんでしょ、さっさと帰ったら?あと俺とプロデューサーちゃんの幸せな時間を邪魔しないで」
「じゃまじゃないよ。それに、まだじかんはあるからだいじょうぶ」
「俺が大丈夫じゃない!」
教室には見向きもせずに話をしている二人に、さっきまでの出来事は白昼夢だったのかなんて考えてしまいそうになる。しかし、さっき強打した臀部の痛みはまだ残っていて、現実なのだと黒羽に知らしめた。
だが、たとえ現実だったとしてももう向き合いたいとは思うはずがなく、黒羽は振り返ることを止めた。
「お前達だけなんでずるいな。俺もついていくぞ」
「はぁ?黒まで何言ってんの!てか、タイムセールはどうするの?」
「今から行っても目当ての物は買えない可能性が高いからな。それに、たまには贅沢をするのも悪くないだろう」
「もう、何でそうなるの!」
「いいから、行くぞ!」
少しでもこの教室から離れられるように、少しでも限りなく非現実に近い現実から逃れられるように、黒羽は嫌がる朔空の背中を無理やり押して教室の前から足早に移動したのだった。途中で背後でパサパサと大きな紙が風に揺られる音が聞こえた気がしたが、黒羽は決して振り返ろうとはしなかった。