「ねぇ、知ってた?」
麦茶を沸かそうとしている最中のこと。朔空から投げかけられた言葉に、黒羽は嫌な予感を感じた。
「どうした?」
こういう時に振られる話題のほとんどはろくなものではない。そう分かっていながら返事をしてしまったことに、黒羽は少なからず後悔した。もちろんもう遅いのだが……。
黒羽はヤカンを火にかけて、振り返る。朔空はソファに腰掛けてスマートフォンを弄っていた。
「男でも母乳って出るんだって」
やはり、ろくでもない話題が飛び出した。黒羽はやれやれとため息を吐く。
「それは病気や薬の副作用での話だろ」
「まぁ、大体はそうなんだけどさ。自然に出ることもあるみたいだよ」
「だから、どうした?」
今後の朔空の行動は大体予測出来るが、黒羽は敢えて素っ気なく言葉を返した。案の定、朔空は立ち上がってゆっくりと黒羽の方に近付いた。
「言っておくが俺は……」
そこまで言ったところで、朔空に右手を掴まれた。てっきり胸を触られるとばかり思っていたから、呆気に取られてしまう。朔空の顔は真剣そのもので、更に黒羽は混乱した。
「朔空、どうした?」
「実はね………」
黒羽を掴む手に力が籠る。朔空はそのまま黒羽の手を自分の胸に押し当てた。
「何をして……」
「俺、母乳が出るみたいなんだ」
「はっ?」
「流石に信じたくなくて、バベルにも確認してもらったんだけど……」
「は?」
「黒にも確かめてもらって、やっぱり母乳が出てくるようなら病院に行こうって思ってたんだ」
「はっ?」
想定外の方に飛躍した展開に、黒羽は間抜けな返事を繰り返す。その間に、朔空は空いている方の手で自分の服をまくり上げると、顕になった胸に黒羽の手を押し当てたのだった。
朔空の肌の感触が手のひらいっぱいに広がったところで、黒羽の思考はようやく落ち着いた。
「朔空、手を離せ」
「やだ。だって、そんなことしたら黒は逃げるでしょ」
「当たり前だ。何でお前の胸を触らないといけないんだ」
「理由はさっき言ったでしょ。病気かどうか黒にも確かめてもらいたいんだってば」
朔空のやっていることはふざけているようにしか見えないが、表情は珍しく真剣だ。冗談ではすまない雰囲気を痛いほどに感じて、黒羽も表情が硬くなる。
「確かめると言っても、どうしたらいいんだ?」
今朔空の申し出を断って、後々取り返しのつかないことになったら……。そう思うと怖くなってきて、背筋に嫌な汗が伝った。
「えっ、やってくれるの?」
「頼んできたのはお前だろう」
「まぁ、そうなんだけどさ」
黒羽があっさりと了承するとは思ってなかったのだろう。朔空は一瞬驚いた顔をしていた。でも、すぐにすまなそうに苦笑して、更に強く胸を押し当ててきた。
「俺の乳首をいじってよ」
黒羽の指先に朔空の乳首が当たる。ほんのわずかに触れた程度では違和感は感じられそうになかった。目視しても、母乳らしきものは確認できそうにない。
しかし、刺激を与えたら出てくる可能性もあるのだ。黒羽は朔空に促されるまま、そっと彼の乳首を摘みあげた。
「んっ……」
「こら、変な声だすな」
「だって、黒が急に乱暴にするから」
「変な言い方をするな。ほら、続けるぞ」
黒羽は朔空の乳首を指で押したり、引っ張ったり、摘まんだままグリグリと捻ってみたり…。たまに周囲の胸を手で包むようにして揉んでみたりもした。その行為の一つ一つがまるで愛撫しているようで恥ずかしかったが、黒羽はぶんぶんと頭を左右に振って後ろめたさを払いのけた。
それから数分間、執拗に朔空の乳首をいじり通したが母乳が出る気配は全くなかった。ほのかに湿った感触がして自分の指を確認してみたが、付着した水分は透明だから、母乳ではなく汗だろう。
「よかったな、母乳は出てないみたいだぞ」
ここまでして何もないのだ。きっと朔空とバベルの気のせいだろう。そう思って黒羽は安堵する。だが、喜ぶ黒羽とは打って変わって、朔空は俯いて震えていた。
「お、おい。朔空、大丈夫か!」
もしかして強く触りすぎたのだろうか。酷く痛むのだろうか。
次から次へと悪い考えが浮かんできて、黒羽はおろおろと狼狽した。しかし……
「あははは、おっかしー」
怒る出すでも、泣き出すでもなく、朔空は突然笑い出したのだった。しかもかなりツボにハマったらしく、お腹を抱えている。
さっきから予想とは全く違う行動を取る朔空についていけなくて、黒羽は茫然とするしかなかった。だが、時間が経つにつれて、自分が彼の悪戯に嵌められたのだとようやく気付いた。
「お前、俺を騙して……」
「やばっ、お腹痛い」
「話を聞け!」
「ごめん、ごめん。まさかここまですんなり騙せると思ってなくて…ははっ」
朔空の笑いはしばらく収まりそうになさそうだ。それどころがどんどん大きくなっていく。愉快なその声が増していく度に、黒羽には別の感情が募り始めていた。
本気で朔空の身を案じていたのに。羞恥にも耐えていたのに。それなのに、こいつは………。
「ふ、ふふ、ふざけるなぁぁぁぁ!」
黒羽は叫ぶ。そして、未だに露わになっている朔空の乳首を、怒りに任せて容赦なく抓ったのだった。
直後、朔空の笑い声が絶叫に変わったのはいうまでもない。