オンスタの誕生日配信が無事に終わった。達成感と安心感に包まれながら、壁にかけてある時計を見上げると、あと数時間で日付が変わろうとしていた。
もうすぐ一年が終わる。そして新しい一年が始まるのだ。
バベルはこの一年間を振り返ってみた。練習は大変だし、悩むこともあった。悲しいと思うこともなかったわけではない。それでも辛い記憶はそれほどなくて、楽しい記憶に埋め尽くされていた。それもこれも、自分の周りにいる仲間や家族、ファン達がとても優しいからだ。
今、この学園に残っているのはバベルとプロデューサーだけだ。しかも彼女は撮影室の戸締りをしに行っているから、バベルは一人で薄暗いエントランスでポツンと佇んでいた。それでも、楽しい出来事をあれこれと思い出していたおかげで、一人でいても寂しくなくて心は温かくなる一方だった。
次第に上機嫌になっていく。ついには鼻歌を歌いながら思い出に浸っていると、不意に聞き慣れた電子音がエントランスに響いた。
(つうちおん?)
ズボンのポケットから聞こえてきたそれは、スマートフォンの通知音だった。何だろう、と確認してみると、どうやらアルケミストのグループMINEにメッセージが入ったようだ。
年明けの仕事についてだろうか、なんて思いながら送られてきたメッセージを読んだバベルは、目を見開いた。そこには黒羽からの真面目な内容の連絡事項ではなくて、可愛いスタンプ数個と「バベル、インスタ配信お疲れ様。誕生日おめでとう。今度会ったらあんぱん奢ってあげるよ」という朔空からの言葉があったから……。しかも続けて黒羽からも「誕生日おめでとう。来年もアルケミストとして共に高みを目指すぞ」の後に「今度あんぱんを作ってやるから楽しみにしておいてくれ」とメッセージが送られえてきて、バベルはパチパチと目を瞬かせた。
何度見直してもそこには大好きな二人からの祝福の言葉がある。それがとても嬉しくて、バベルはギュッとスマートフォンを握った。
しかし、バベルのスマートフォンは鳴り止まない。それどころか何回も、何回も、通知が届いて、静かなエントランスに明るい電子音がこだました。
呆気に取られたバベルはディスプレイをまん丸くした目で見つめる。今度はアイチュウ全体で使うグループに、「バベル、誕生日おめでとう!今度一緒にワック行こうぜ!」という星夜のメッセージから始まり、他のメンバーからのお祝いの言葉が次々と流れ始めたのだ。
偶然なのか、元々計画していたのかは分からない。それでも自分の誕生日を祝ってくれる人がたくさんいる事には代わりがなくて、喜びでトクトクと心が弾んだ。
どんどんと流れてくる優しい言葉達から目が離せない。ずっと、ずっと、見ていたくなる。しかし、そんな彼の気持ちとは裏腹に、視界は徐々にぼやけていった。
「あれっ……」
気付けば両目には涙がいっぱい溜まっていて、留まりきらなかった粒が彼の頬を滑り落ちていった。冷たい空気に冷やされていた頬に温もりが走る。
(バベル、ないてる?どうして?)
自然と流れてきた涙にバベルは呆然とする。しかし、すぐに笑顔に戻った。
(そういえば、まえにぷろでゅーさーがいってたっけ)
昔は、涙が流れるのは悲しい時なのだと思っていた。でも、それだけではない。悲しくなくても涙は流れるのだと、今のバベルは理解していた。
バベルは愛しげに涙で濡れた頬に触れる。やはり、温かい。一気に感情が込み上げてきたせいで少しだけ目眩もしたが、不快ではなく、むしろ心地良くさえあった。
この感情をバベルは知っていた。いや、アイチュウになることで知ることが出来た。これは『幸せ』だ。
「バベル君、待たせてごめんね」
幸せな涙の余韻に耽っていると、彼を呼ぶ声と慌ただしい足音が近付いてきた。振り返ると、ヒールでこちらに頑張って走ってくるプロデューサーが見えた。
「ぷろでゅーさー、おかえり」
バベルは目に残っていた涙を拭ってプロデューサーを迎える。辺りが薄暗いせいか、彼女はバベルが泣いていた事には気付いていないようで、懸命に息を整えながら待たせたことを謝ってきた。
「本当にごめんね。仕事の連絡が入ってたみたいで対応してたら時間がかかっちゃって……」
「だいじょうぶだよ。いまのバベルはとってもしあわせだから」
「?」
バベルが嬉しそうにしている理由が分からず、プロデューサーは不思議そうな顔をして彼を見上げる。しかし、バベルがニコリと笑いかけると、彼女はすぐに頬を緩めた。
「じゃあ、遅くなっちゃったから急いで帰ろうか」
「はーい」
あまりに帰りが遅いと、家族の皆が心配してしまうだろう。バベルはスマートフォンを大切に握ったまま、先に歩き始めたプロデューサーの後に続くようにして歩き出した。
「あ、そうだった」
コツコツ、パタパタと、二人の足音が混ざり合う。そのまま歩みは止めずに、何かを思い出したプロデューサーが顔を上げ、バベルと視線が交わった。
どうしたのだろうと、プロデューサーの様子をうかがっていると、今度は彼女から微笑み掛けられたのだった。
「バベル君、誕生日おめでとう!」