歩く度に足に生地がまとわりついてくる。風が吹けば簡単に裾が浮き上がり、下着が見えていないか気になってしまう。女性が平然と身に付けているスカートはこんなに歩きにくい服装なのか、と黒羽は身をもって思い知っている最中だった。
「朔空、頼むからもう少しゆっくり歩いてくれ」
自分の隣を何食わぬ顔でスタスタと歩く朔空に、黒羽は小声で話しかける。しかし、朔空は楽しげに目を細めるだけで、歩く速度を落とそうとはしなかった。あからさまな悪意に黒羽は朔空を睨み上げ。そもそも、今こうして黒羽が女装しているのは朔空のせいなのだから……。
今日はオフ日。本来ならばスーパーのタイムセールをはしごして、作り置きを作っておく予定だったのだが、不運にも突然の出費と借金返済の振込が重なってしまい朔空に無利子でお金を借りた結果、こうやって彼の用事に付き合わされる事になったのだ。
最初は複数人数でのみ頼めるのパフェを食べたいから、数合わせで付き合ってくれとだけ言われていたのだが、どうやらそれはカップル限定のものだという。おかげでどちらが彼女役をやることになり、借りがある負い目と身長を理由に黒羽が女装する羽目になったのだった。
「黒、今更だけどものすごくがに股になってるよ」
「仕方ないだろ。歩きにくいんだ」
「もっと堂々としてないと、男だってバレちゃうかもよ」
やっと朔空がこちらに気を向けたかと思いきや、意地の悪い言葉を投げかけられた。黒羽はムッとしつつも、実際にかなり不自然な歩き方をしているからと反論出来ずにいた。寧ろ、不服だが朔空の指摘には一理あって、受け入れるしかなかった。
堂々としている方が自然だし、道中で何度かモデルのカップルかと勘違いもされたのだ。せっかく男だのバレていないのに、不自然に歩いているせいで気付かれていまったらたまったものではない。
黒羽は沸き上がる羞恥心を懸命に抑えながら、顔を上げる。そして、ステージに経つ時のことを意識しながら、背筋を伸ばした。
「あはは、さっきより全然マシになったじゃん」
「茶化すな」
「はいはい、ごめんって。まぁ、せいぜい転ばないように気をつけてよね」
「そんなヘマなことするわけないだろう」
一体どこまで馬鹿にすれば気が済むのだろうか。始終楽しげにこちらを観察してくる朔空から、ぷいっと視線を逸らして、黒羽は再び歩き出した。
喫茶店まではまだ少しある。まずはそこにたどり着くまで頑張ろう。そう自分に言い聞かせて、朔空の隣に並んだ。
時折ニヤニヤした朔空がこちらを見下ろしてくるが、敢えて無視を決め込む。ここで少しでも怒ったり恥じらいを見せても、彼を楽しませるだけだからだ。
(大丈夫だ。俺は可愛い。どこからどう見ても可愛い。男には見えない。大丈夫。大丈夫)
心の中で呪文のように己を励ます。さっきよりも大股で、早足で、足を動かす。
そうしていると遠くに目的の看板が見えてきた。あとは歩道橋を渡って、少し進めばゴールだ。
「黒、少し慎重に歩いた方がいいんじゃない?」
「余計なお世話だ」
朔空の言葉に素っ気なく答えたものの、この返答に黒羽はすぐに後悔する事になった。歩道橋の階段に差し掛かったところで、スカートの端が何度もつま先に引っかかるようになったからだ。平らな道を歩いている時はこんなことはなかったのだが、うっかりスカートを踏んでしまって何度もバランスを崩しそになった。
それでも朔空に頼る気にはなれなくて、手すりをしっかりと持ちながら何とか歩道まで登りきる。その時にはかなり気疲れが溜まっていて、まだこれから階段を下らないといけないのかと思うと気が重たくなった。
とぼとぼと歩道を渡り、下り階段まで差し掛かる。黒羽は憂鬱なため息を深く吐きながら、慎重に一歩を踏み出した。
一段。また一段。ゆっくりと着実に階段を下っていく。一方で朔空は黒羽より少し早いペースで階段を降りていき、両者の間には徐々に距離が開こうとしてきた。
待ってくれ、何て口が裂けても言いたくない。だから、黒羽は頑張って彼の後を追った。それがいけなかった。
「えっ……」
不意に体が手前に傾く。咄嗟に踏ん張ろうとしたが、うっかりスカートを踏んでしまって、足が上手く動かせない。手すりを持とうとしたものの、呆気に取られている間にギリギリ指先の届かない辺りまで体は宙に投げ出されてしまっていた。
(落ちる)
と確信する。背後からは他の通行人の悲鳴が聞こえた。ただただ気持ちの悪い浮遊感に包まれる。頭の中は真っ白になっていて、叫ぶことも助けを呼ぶことも出来なかった。
黒羽は咄嗟に目を閉じる。そして自分が倒れていく感覚をありありと感じつつ、すぐに訪れるであろう痛みに身構えた。
しかし……
ドサッと衝撃が走ったものの、想像していた傷みとは全く別の感触が全身を包んだ。
ほのかに温かい。そして、程よく硬い。
唖然としながらも目を開けると、そこには朔空の呆れ顔があった。
「ちょっと、黒。大丈夫?」
「………」
朔空の声はちゃんと耳に届いている。しかし、突然の事で頭が混乱してしまい、黒羽はまともに返事が出来そうになかった。取り敢えず首を何度も縦に振って問題ないことを伝える。
「本当に?」
朔空の表情は怪訝そうなままだ。それでもそれ以上は聞き返すことはなかった。更に、さっき転びそうになった拍子に脱げかけてしまった黒羽の靴を履かせ直し、落ち着くようにと優しく背中まで叩いてきた。普段との辛辣な態度とのギャップに更に頭が混乱してしまいそうになる。
「じゃあ、行こっか」
「ふぇっ……」
勢い余って朔空に抱きついてしまった名残で、自分の腕はまだ彼にしっかりと捕まっている。だが、朔空はそれを振りほどこうとはせず、それどころか黒羽を支えたまま歩き始めた。
手を離さなければ。そう思いつつも、体は緊張しているのに気は緩んでしまっていて、朔空の腕をがっちり掴んだ黒羽の手は言うことを聞いてくれそうになかった。
色々な事が起こりすぎて、脳の処理が追いつかない。背後にいた通行人が「彼氏さんイケメンすぎ」「格好いいなぁ」などと話している声を辛うじて処理できた程度だ。それからは朔空の腕に抱きつき腰を支えられたまま喫茶店まで歩いたことも、二人で向かい合って座ってカップル限定パフェをつついたことも、帰る道中も手を引かれていたことも、ぼんやりとしか記憶に残っていなかった。
帰宅後、身も体も落ち着いてきたのは数時間が経過してからだ。じわじわと己の失態の追憶と羞恥が押し寄せてきて、黒羽は自室のベットに引きこもると、深々と布団を被って悶絶したのだった。