ほとんど照明が切れているせいで薄暗い廊下。割れた窓から吹き込む冷たい風。何年も積もったホコリと、ツンとした消毒の香り。今にも心臓が止まってしまいそうな程に不気味な廃病院。それが人工的に作られたものだと分かっていても、そこはかとなく漂ってくる不穏な雰囲気に双海は泣きそうになっていた。
「ふたみくん、だいじょうぶ?」
「全然大丈夫じゃないよぉぉ」
普段と変わりなく落ち着いているバベルに隠れるように、双海は彼の背中にピッタリと張り付いている。そうでもしないと恐怖で押しつぶされてしまいそうだった。
「バベル君、お願いだから俺のこと置いていかないでよ」
「うん、わかった」
「絶対だからね!」
双海はバベルの服をぎゅーと掴みつつ、この仕事を受けてきた時の一誠の嬉々とした顔を憎々しげに思い返した。
アルケミストとランスロットがペアを組んで行う最新ホラーハウスのロケ。最初にこの仕事の話を聞いた時は耳を疑った。それは鷹通も同じだったが、二人がどれだけ抗議しようと仕事の話はすでに進んでしまっているらしく断るという選択肢はなかったのだ。
不幸中幸いだったのは、双海のペアがバベルだったことくらいだろう。もしも朔空と組むことになっていたらと思うとゾッとしてしまう。
「ふたみくん、すすんでもいい?」
「いいよ。でも、出来るだけゆっくり行ってね」
「はーい」
のんびりした返事にホッとする。このままバベルにくっついて外に出ようと目論んだ双海は、彼の大きな背中に顔を埋めた。
コツコツと、二人分の足音が無機質な壁に反響する。ホラーハウス故に時折不気味なうめき声や悲鳴がそこかしこから聞こえてきて、その度にドキリとしたがバベルの背中から伝わってくる落ち着いた鼓動のおかげで恐怖心は緩和された。更に彼の体温がヒヤリと底冷えしそうな双海を温めてくれて、体の震えも幾分かはマシになっていた。しかもバベルはちゃんと双海を気遣ってくれて、曲がる時や階段を昇る時なんかはちゃんと声を掛けてくるのだ。心強さしかなかった。
これなら何とか無事に出口までたどり着けそうだ。そう安心しながら、バベルに導かれるままに進んでいく。それでもそれなりの距離があるアトラクション故に、ゴール直前にたどり着いた時にはかなりの疲労感が蓄積していた。
「バベル君、あとどれくらい?」
「えっとね、あとはれいあんしつをぬけたらでぐちみたいだよ」
「うわぁ、ものすごく行きたくない」
「いくのやめる?」
「行くよ。早く外に出たい」
「わかった。あとすこし、がんばろうね」
バベルの励ましに背中を押されつつ、最後のエリアに入る。きっと空調を寒く設定しているのだろう。入った途端にとてつもない寒さに包まれて、双海は思わず身震いした。バベルも寒いのか、少しだけ体が震えていた。
「ここ、とってもさむいね」
「そうだね。ねぇ、早く出口に進もう」
「………」
先を急ぎたくて、双海はバベルの背中を押す。しかし、バベルはその場で立ち止まり足を踏み出そうとはしなかった。
「バベル君、どうしたの?」
「ふたみくん、ちょっとしずかにしてて」
「えっ?」
不意に小さくなったバベルの声には緊張感が含まれていた。目を瞑っていて聴覚が敏感になっていたが故にその変化にしっかりと気付いてしまった双海は、思わず体を強ばらせた。
一体何があったのだろう。まさか何か視えているのではないか。
確認したいが、怖くて目を開けない。尋ねようにも、静かにしろと言われているから聞くことも出来ない。ただ、悪い予感だけがどんどん募っていき、双海の心臓は不規則に暴れ出そうとしていた。
「ふたみくん、ぜったいにバベルからはなれたらだめだよ」
囁くような声。双海は黙ったままコクコクと頷く。そしてバベルを離すまいと、彼の腰に腕を回してピッタリとくっついた。
「じゃあ、うごくね」
そろり、そろり、とバベルが歩き出す。双海もそれに合わせてゆっくりと足を動かしていく。 きっとここから出口までの距離はそこまで長くはないだろう。しかし、訳の分からない恐怖によって途方もない長さに感じられた。
最終的には怖さで何も考えられなくなっていたようで、ゴールに到達してからバベルに何度も名前を呼ばれてようやく正気を取り戻したのだった。
「ふたみくん、ふたみくん、だいじょうぶ?おそとにでたよ」
「えっ、外……」
ゆっくりと目を開ける。そして彼の背中から顔を上げると、陽の光が差し込んできた。
「うわっ、眩しい!」
「おばけやしきのなか、とってもくらかったもんね。バベルも、めがちかちかした」
双海はずっと掴まっていたバベルから体を離す。すると、バベルはくるりと双海と向き合うように振り返った。
「ねぇ、ふたみくん」
まだ目が明るさに慣れない。そのせいで自分を見下ろしているバベルがどんな顔をしているのか全く分からない。だが、声色からとても優しい顔をしているであろうことは想像できた。
「こわいのに、よくがんばりました」
大きな手のひらが頭に降りてくる。そのままあやす様に頭を撫でられて、ようやく緊張の糸が途切れた心地がした。同時に腰も抜けてしまったようで、双海は倒れてしまわないようにと、もう一度バベルにくっついた。今度は向かい合う形で…。
「あのさ、ちょっと聞いてもいい?」
「なに?」
「最後の霊安室だけど、どうして立ち止まったの?」
怖いもの見たさという心理が働いてしまったのか、双海は不意にそう尋ねていた。一瞬だけバベルの手がビクリと動揺で震えたのが伝わってくる。
問いかけに対してバベルはすぐに答えることはせず、僅かな沈黙が生まれた。話してもいいのかどうかを葛藤しているのかもしれない。
もしかしたら聞かなかった方がよかったのではないか。そんな後悔と恐怖がじわじわと湧き上がってきたところで、バベルの声が降ってきた。
「えっとね、バベルたちのまえに、くろくて…」
「やっぱり言わないで」
自分で尋ねておいて情けなく思いつつ、双海はバベルの口を片手で塞いだ。せっかく落ち着いてきていた心臓が再び震え始める。
「バベル君、ごめん。まだ怖いからもう少しこうしてて」
「うん、いいよ」
よーし、よーし、と自分を宥めるバベルには申し訳ないが、彼とは二度とホラーハウスに入りたくないと思った双海だった。